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左から:クロード・モネ、1899年/オーギュスト・ロダン、1891年/Photo: Nadar
画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain
「印象派」の生みの親とも言われる画家クロード・モネと、《考える人》で知られる彫刻家オーギュスト・ロダン。どちらも名前を聞いたことがある人は多いでしょう。「絵画」と「彫刻」、分野は違いますが、じつはこの二人、作品を贈り合うほどの仲良しでした。
そんな二人が、1889年6月、パリで大きな合同展を開くことになります。気心の知れた二人の晴れ舞台。さぞ和やかな展覧会になるのかと思いきや……そうはなりませんでした。
開幕直前の会場で、ちょっとした?“騒動”が起こります。モネは画廊主あてに、かなり強めの抗議の手紙を書くことに。
ちょっとした“騒動”と言っていた割には、どうも穏やかではありません。
いったい会場で何があったのか。まずは時計の針をぐっと巻き戻して、二人が仲良くなった頃からのぞいてみましょう。
誕生日はたった2日違い!でも幼なじみではない二人

モネとロダンは、どちらも1840年11月にパリで生まれました。ロダンが12日、モネが14日。日本の学校なら同級生、誕生日会もまとめて開けてしまいそうな近さです。
ただし、幼なじみではありません。モネは幼い頃に家族でノルマンディー地方の港町ル・アーヴルへ引っ越し、少年時代を海辺の町で過ごしました。ロダンはパリで素描を学んだのち、1864年からは装飾彫刻家アルベール・カリエ=ベルーズのもとで働きながら、彫刻家への道を歩んでいます。同じ街で生まれた“ほぼ同期”の二人は、それぞれ別の場所で大人になっていったわけです。
では、二人はいつ出会ったのか。じつはこれが、はっきり分かっていません。手がかりは共通の知人たちです。文筆家のオクターヴ・ミルボーやギュスターヴ・ジェフロワ、そしてモネの絵を長く扱ってきた画商ポール・デュラン=リュエル。こうした人たちを通じて知り合ったと考えられています。
1886年、ブルターニュ沖の島ベル=イルでの制作を終えたモネは、「ボン・コザック」と呼ばれる芸術家や知識人の夕食会に顏を出すようになります。この集まりに、ロダンも通っていました。
この頃のモネは、印象派の仲間とのグループ展から離れ、画商を通じて作品を発表するスタイルに切り替えつつありました。ロダンもまた、国などから大きな注文を受ける彫刻家に。絵画と彫刻、ジャンルは違っても、同い年の二人は同じ人の輪のなかにいたのです。
ちなみに、ロダンが国から受けていた大きな注文というのが《地獄の門》。1880年、パリに計画されていた装飾美術館の入口の扉として依頼されたもので、詩人ダンテの『神曲』に描かれた地獄がテーマです。あの《考える人》も、もともとはこの扉の上の中央に座るダンテとして考えられた像でした。つまり最初の役どころは、「地獄を見下ろしながら、自分の詩について考えている人」。のちに特定の誰かではなく、考える人間そのものを表す像として独り立ちしていきます。《地獄の門》と《考える人》は、東京・上野の国立西洋美術館の前庭で見ることができます。
作品をプレゼントし合う仲良しぶり
1888年、二人は互いの作品を交換しています。いわば、アーティスト同士のプレゼント交換です。
モネが贈ったのは、1886年にベル=イルで描いた一枚。モネはこの島に2か月半ほど滞在し、荒れた海と岩の海岸を、移り変わる天候のなかで何枚も描いていました。そのうちの一点が、ロダンのもとへ届いたわけです。
モネがロダンへ送った絵画《ベル=イル》

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:ロダン美術館所蔵作品)/Public Domain
お返しにロダンは、なんと2点の候補を示して、モネに選んでもらう形をとりました。モネが選んだのは、ブロンズ(青銅)でつくられた《洞窟の若い母》。像が届くと、モネはロダンにこう書き送っています。
Mon cher Rodin, que je vous dise combien je suis heureux du beau bronze que vous m’avez envoyé.
Je l’ai placé dans l’atelier afin de le voir constamment.
Je suis revenu émerveillé de votre Porte et de tout ce que j’ai vu chez vous.
Merci encore. Amitiés.
訳:親愛なるロダン、送ってくださった美しいブロンズが、どれほどうれしかったかをお伝えさせてください。
いつでも見られるよう、アトリエに置きました。
あなたの《門》と、あなたのところで見たすべてのものに感嘆して帰ってきました。
あらためてありがとう。友情をこめて
ロダンがモネへ送った像《洞窟の若い母》

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:14GTR撮影)/CC0
アトリエは画家の仕事場。毎日過ごす場所の、いつでも見えるところに友人の彫刻を飾ったわけです。もらったプレゼントを飾って、そのことをちゃんと本人に伝える。読んでいるこちらまで、ちょっとうれしくなる手紙です。
こうして作品を通して親しさを深めていった二人。翌1889年、その関係は「二人だけの展覧会」という、さらに大きな形へとつながっていきます。
「あなたと私だけで」豪華な二人展へ
舞台はパリのジョルジュ・プティ画廊。印象派の画家たちを売り出した主要な画商の一人、プティが1882年に開いた画廊です。モネもロダンもここのグループ展にたびたび作品を出していて、1886年と87年には同じ展覧会に二人の作品が並んでいました。二人にとっては、いわばホームグラウンドです。
最初の計画が持ち上がったのは1888年。モネとロダンに、画家のルノワールや、アメリカ出身でロンドンを拠点にしていたホイッスラーらを加えた、なかなか豪華な顔ぶれのグループ展でした。ところがプティがこの案に応じず、計画はあえなく立ち消えになります。
そこでモネは翌年2月、ロダンに新しい展覧会の話を持ちかけます。手紙にはこう記されていたそうです。
mais rien que vous et mo 訳:でも、あなたと私だけで
こうして実現した二人展は、かなりの大ボリュームでした。モネの絵が145点、ロダンの彫刻が36点。開幕は6月21日です。ちなみにこの年のパリでは5月から万国博覧会が開かれていて、その目玉としてエッフェル塔が完成したばかりでした。
注目したいのは、モネの出品作の中身です。いちばん古いものは1864年、新しいものは1889年の作品。20代前半の修業時代から、48歳で迎えたこの展覧会まで、およそ25年分の人生がずらりと並びました。新作のお披露目というより、回顧展と言えるほどです。
しかもモネは、この年の春にもクルーズ地方の村フレッシーヌに3か月ほど滞在し、川沿いの岩を何枚も描いていました。新しい制作を続けながら、25年分の歩みを一気に見せる。モネにとって、特別な重みを持つ晴れ舞台だったのです。

画像出典:The Art Institute of Chicago(原画像:同館所蔵作品)/CC0
6月20日の夜、駆け込みで搬入されたロダンの「作品」
開幕を翌日に控えた6月20日。会場の壁には、すでにモネの絵が掛けられていました。ところがロダンの作品は、まだ全部はそろっていません。
この日、モネとプティはロダンに電報を打っています。内容は「残りの作品を持って今夜のうちに来てほしい」というもの。開幕前夜になっても、ロダンの搬入は終わっていなかったわけです。今でいえば、締め切り前夜の駆け込み入稿といったところでしょうか。
ロダンはこの求めに応じ、その夜のうちに作品を据えつけました。そのなかにあったのが、当時のロダンが手がけていた大作《カレーの市民》です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Caeciliusinhorto撮影、2021年テート・モダン展示)/CC BY-SA 4.0
《カレーの市民》は、カレー市の依頼でつくられた記念碑。題材は1347年、イギリスとフランスが戦った百年戦争のさなかの出来事です。1年におよんだイギリス軍の包囲を終わらせるため、六人の市民が町の鍵をイギリス王に差し出し、わが身を犠牲にしようとしたと伝えられています。
ロダンはこの六人を、人の背丈ほどもある像として一つの群像にまとめました。会場に置かれたのは、のちにブロンズで鋳造される前の石膏の像。そのブロンズ像は、《考える人》と同じく国立西洋美術館の前庭で見ることができます。
つまり開幕前夜、人の背丈ほどもある六人組が、会場入りしたわけです。そして翌朝…
開幕当日の朝、「私の展示が台無しだ」
6月21日、開幕当日の朝。会場に来たモネは、展示を見て愕然とします。前の晩に置かれたロダンの彫刻、なかでも巨大な《カレーの市民》が、自分の絵を遮っていたのです。
当然、展覧会の配置は「空いている場所ならどこでもいい」というわけではありません。どの作品を隣り合わせに置き、どのような順序で見せるのか。145点もの絵画を並べる大規模な展覧会だからこそ、その見せ方にもモネなりの強いこだわりや、綿密な計算があったことでしょう。
自分が大切にしていた作品が遮られてしまったことは、単なる「場所取りの問題」では済まなかったようです。
しかも相手は、見知らぬ芸術家ではありません。
前年には作品を贈り合い、互いの芸術を認め合い、モネ自身が「二人で展覧会を開こう」と声をかけたロダンでした。それまで親しく付き合ってきた相手だったからこそ、モネのなかには、怒りだけでは片づけられない思いもあったのかもしれません。
モネはその日のうちに、画廊主のプティへ手紙を書いています。
Mon panneau du fond, le meilleur de mon exposition, est absolument perdu depuis le placement du groupe de Rodin.
訳:私の展示でいちばんよい部分である奥の壁面が、ロダンの群像が置かれてから、まったく台無しになってしまいました
手紙はそれだけでは終わりません。モネは、すっかり気落ちしてしまったこと、この展覧会から身を引くつもりであることを書きつけ、さらにこう続けています。
J’n’aspire qu’à une chose, c’est prendre le chemin de Giverny et y trouver le calme…
訳:私が望むのはただ一つ、ジヴェルニーへの道をたどり、そこで落ち着きを得ることです
ジヴェルニーは、モネが1883年から家族と暮らしていた村。ひとことでまとめるなら「もう家に帰りたい」ということです。それを開幕当日に書いているのです。
ちょっと笑ってしまいそうになりますが、モネにとっては笑いごとではありません。145点の絵で25年分の仕事を見せる晴れ舞台で、いちばんの見せ場が見えなくなっていたのですから。
では、ロダンのほうはどうだったのでしょう。
ロダンの反応として伝わっているのは、本人の手紙ではありません。作家エドモン・ド・ゴンクールが日記に書きとめた話です。ゴンクールは、1851年から40年以上にわたってパリの文学界の出来事を書きとめた日記で知られる人物。いわば、19世紀パリ文壇の“記録係”です。そんなゴンクールの日記に、当時のロダンについてこんな一文が残されていました。
Il s’est passé, à ce qu’il paraît, des scènes terribles où le doux Rodin,
sortant tout à coup un Rodin inconnu à ses amis, s’est écrié :
Je me fous de Monet, je me fous de tout le monde, je ne m’occupe que de moi !
訳:聞くところによると、ひどい騒ぎがあったらしい。
あの穏やかなロダンが、友人たちも知らなかったような一面を突然あらわにして、こう叫んだという。
「モネなんか知ったことか、誰のことだって知ったことか、自分のことしか考えていない!」
……なかなかの言いようです。
「作品を贈り合う仲良し二人」の展覧会とは思えない、ずいぶん物騒な空気になってきました。どうやらこの「小さな…?」騒動、少なくとも当人たちにとっては、まったく小さな話ではなかったようです。
さて、このひと騒動。二人の合同展はどうなったのでしょう。そして、モネとロダンの関係は…?
それでも合同展は成功した
そんなひと騒動を経て、二人の合同展は予定どおり幕を開けます。ところが、いざ始まってみれば、朝の騒動などどこ吹く風。展覧会は観客にも批評家にも好評で、とくにモネは新聞や雑誌で広く取り上げられ、大成功をおさめます。
では、もうひとつ気になる二人の仲はというと…安心してください。こちらも、心配するような結末にはなりませんでした。
二人は、この一件で関係が決裂したわけではありません。むしろ、その後の交流の記録を見てみると、二人の関係が続いていたことがよく分かります。
同年の暮れ、モネは亡き友人マネの《オランピア》を買い取り、フランス国家に贈るための募金を始めます。マネの死後も売れずに残っていたこの作品を公のコレクションに加えることで、画家への敬意を示そうと考えたのです。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Art Project/Musée d’Orsay)/Public Domain
モネは、計画に賛同してくれそうな友人や芸術家たちに協力を呼びかけ、そのなかにはロダンもいました。するとロダンはすぐに返事をしています。
Mon cher Monet, inscrivez-moi pour 25 francs.
C’est pour y mettre mon nom. Je suis dans une crise d’argent qui ne me permet pas plus.
Je vous félicite d’avoir, par vos efforts, donné un tableau de Manet au Louvre.
À vous d’amitié. Rodin.
訳:親愛なるモネ、25フランで私の名を加えてください。
名前を載せたいのです。いまはお金に困っていて、これ以上は出せません。
あなたの尽力でマネの絵がルーヴルに入ることを、お祝い申し上げます。
友情をこめて。ロダン
いまは金欠で…でも名前は載せたい!なんと正直な人でしょう。
ほんの半年ほど前に「モネなんか知ったことか」と叫んだとされる人と、同じ人物とは思えないこの返事。あの開幕の朝の騒動は、いったい何だったのでしょう。ちなみに募金には100人近くが応じ、《オランピア》は翌1890年、めでたく国のコレクション入りを果たしました。
それから8年後の1897年。ロダンの素描を集めた本を受け取ったモネが、友情と称賛をつづった手紙を送ると、ロダンはこう返しています。
…le même sentiment de fraternité, le même amour de l’art,
nous a fait amis pour toujours…
訳:同じ友愛の気持ち、同じ芸術への愛が、
私たちを永遠の友にしたのです
あれだけ揉めても、二人の友情まで壊れることはなかったようです。
そして翌1898年、今度はモネがロダンを助ける番がやってきます。ロダンの《バルザック像》が、依頼主の文芸家協会に受け取りを拒まれ、大騒ぎになったときのこと。モネは、画家のトゥールーズ=ロートレックや作曲家のドビュッシーらとともに、ロダンを擁護する抗議文に名を連ねました。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Jebulon撮影/Musée Rodin)/CC0
このころロダンがモネに送った手紙には、こんな一節があります。
Votre appréciation est une de celles qui m’étayent fortement ;
j’ai reçu une bordée, qui est pareille à celle que vous avez eue autrefois
quand il était de mode de rire de l’invention que vous aviez eue de mettre de l’air dans les paysages.
訳:あなたの評価は、私を力強く支えてくれるものの一つです。
私が浴びた集中砲火は、かつてあなたが受けたものと同じです。
風景に“空気”を描き込むというあなたの発明を笑うのが、流行りだった頃のことです
かつてモネが笑いものにされた点を、ロダンはちゃんと“発明”と呼んでいます。笑われた経験のある者どうしだからこそ、分かり合えるところがあったのかもしれません。
二人の手紙のやりとりは、1917年11月にロダンが77歳で亡くなるまで続きました。その年の5月にも、モネは、ロダンの作品のための美術館がつくられるのを見越して、ロダンのデッサンの整理を手伝おうと申し出ています。
ロダンが亡くなったのは11月17日。モネが77歳の誕生日を迎えた、わずか3日後のことでした。誕生日2日違いの仲良し2人組は、最後まで同い年のままだったのです。
あとがき|大芸術家二人の、ちょっと人間くさい一日
世界的な巨匠――なんて聞くと、どうしても少し遠い存在に感じてしまいます。でも、美術館では涼しい顔で並んでいる巨匠たちも、のぞいてみれば、ずいぶん人間くさい一日を過ごしていたものですね。仲がよくても、腹が立つことはある。譲れないところでは本気でぶつかる。でも、だからといって全部おしまいになるわけでもない。
なんだか、普通に友人同士です。
そう思うと、モネの絵もロダンの彫刻も、ほんの少し違って見えてくる気がします。上野の国立西洋美術館で《カレーの市民》を見かけたら、ぜひ思い出してみてください。「ああ、この人たちが、あのときモネの“いちばんの見せ場”前に立ってしまったのか」と。
そして近くの《考える人》は、今日も何やら考えています。でも、あの一件についてどう思っているのか――そこまでは、さすがに教えてくれそうにありませんね。
引用・参考元はこちら
ロダン美術館「Rodin et Monet」
┗ https://www.musee-rodin.fr/ressources/rodin-et-les-artistes/rodin-et-monet
ロダン美術館「Rodin and Monet」
┗ https://www.musee-rodin.fr/en/resources/rodin-and-artists/rodin-and-monet
ロダン美術館「Rodin and Monet(Educational files)」
┗ https://musee-rodin.fr/en/resources/educational-files/rodin-and-monet
ロダン美術館「Monument to the Burghers of Calais」
┗ https://www.musee-rodin.fr/en/musee/collections/oeuvres/monument-burghers-calais
ロダン美術館「Monument to Balzac」
┗ https://www.musee-rodin.fr/en/musee/collections/oeuvres/monument-balzac-0
ロダン美術館(ムードン)「Le Penseur」
┗ https://www.meudon.musee-rodin.fr/en/musee/collections/oeuvres/penseur-meudon
オルセー美術館「Olympia」
┗ https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/olympia-712
オルセー美術館「A Hundred Years Ago: Olympia」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/program/whats-on/exhibitions/hundred-years-ago-olympia
オルセー美術館「Porte de l’Enfer」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/porte-de-lenfer-15645
オルセー美術館「Georges Petit」
┗ https://www.musee-orsay.fr/es/recursos/directorio-artistas-personalidades/georges-petit-207030
国立西洋美術館「地獄の門」
┗ https://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0045.html
国立西洋美術館「考える人(拡大作)」
┗ https://collection.nmwa.go.jp/S.1959-0040.html
国立西洋美術館「美術館の建築」
┗ https://www.nmwa.go.jp/jp/about/building.html
国立西洋美術館 みんなの3Dロダン図鑑「カレーの市民」
┗ https://rodin.nmwa.go.jp/3d-models/burghers-of-calais/
スミソニアン国立アジア美術館「An American in London: Whistler and the Thames」
┗ https://asia.si.edu/whats-on/exhibitions/an-american-in-london-whistler-and-the-thames/
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◼️公的機関・研究機関
フランス国立美術史研究所(INHA)AGORHA「Rodin, Auguste」
┗ https://agorha.inha.fr/ark:/54721/d0bc017b-5c73-46e0-9383-c975663bf463
フランス国立図書館(BnF)「Journal des Goncourt : mémoires de la vie littéraire」
┗ https://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb34163155m
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◼️その他
Claude Monet Giverny「21 juin 1889 : Monet expose au côté de Rodin」
┗ https://claudemonetgiverny.fr/actualites/21-juin-1889-monet-expose-au-cote-de-rodin/
エッフェル塔公式サイト「1889-2019, 130 ans d’émerveillement」
┗ https://www.toureiffel.paris/fr/actualites/130-ans/1889-2019-130-ans-demerveillement
サザビーズ「Monet, Claude|3 lettres autographes signées 1889-1890」
┗ https://www.sothebys.com/en/buy/auction/2024/livres-et-manuscrits-3/3-lettres-autographes-signees-1889-1890-relatives
アールキュリアル「Monet & Manet|donation de l’Olympia de Manet」
┗ https://www.artcurial.com/en/sales/4310/lots/11-a
