クロード・モネ《ウェストミンスター橋下のテムズ》1871年頃、油彩・カンヴァス、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:National Gallery, London)/Public Domain
ロンドンのナショナル・ギャラリーに、霧に包まれたテムズ川を描いた一枚の絵があります。川の向こうでは国会議事堂の塔が影のようにかすみ、手前の桟橋では、小さな人影が作業をしています。
描いたのは、クロード・モネです。制作は1871年頃。モネはこのとき、30歳になったばかりでした。
フランスの画家であるモネが、なぜこの時期、ロンドンで絵を描いていたのでしょうか。
その少し前、1870年の夏、モネはノルマンディーの海辺の保養地トルーヴィルにいました。結婚したばかりの妻カミーユと、幼い息子ジャンも一緒です。浜辺でくつろぐカミーユたちを描いた小さな絵が、同じナショナル・ギャラリーに残っています。画面をよく見ると、海風に運ばれた砂粒が、乾ききらない絵具に混じって固まっています。この絵の少なくとも一部が、浜辺でじかに描かれたしるしです。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:National Gallery, London)/Public Domain
夏の海辺から、霧の街ロンドンへ。そのあいだに起きていたのが、普仏戦争でした。
そもそも普仏戦争とは?|モネがフランスを離れた時代
普仏戦争は、1870年7月から翌1871年にかけて、フランスと、プロイセン王国を中心とするドイツの国々とのあいだで戦われた戦争です。
当時のフランスは、皇帝ナポレオン3世が治める「第二帝政」の時代でした。対するプロイセンは、首相ビスマルクのもとで、いくつもの国に分かれていたドイツを一つにまとめようとしていました。
戦争は、フランスの大敗に終わります。開戦から1か月半ほどで、ナポレオン3世は戦場で捕虜となり、第二帝政は崩壊。パリでは共和政が宣言され、のちに「第三共和政」と呼ばれる時代が始まります。首都パリはその後4か月にわたってドイツ軍に包囲されました。1871年1月、ヴェルサイユ宮殿でプロイセン王がドイツ皇帝として宣言され、ドイツ帝国の成立が示されます。フランスは降伏し、アルザスの大部分とロレーヌ地方の一部を失いました。

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もっと詳しく|戦争はなぜ起き、どう終わったのか
戦争の背景には、ドイツ統一をめぐる動きがありました。プロイセンは1866年にオーストリアとの戦争に勝ち、翌1867年には北ドイツの国々をまとめた「北ドイツ連邦」を成立させます。バイエルンなど南ドイツの国々は、まだその外にありました。すぐ隣に強大な国家が生まれようとしていることを、フランスは強く警戒していました。
きっかけになったのは、スペインの王位をめぐる問題です。1868年の革命で女王が国を追われ、空いた王座の候補として、プロイセン王家と同じホーエンツォレルン家の流れをくむレオポルト公子の名が挙がりました。東のプロイセンと南西のスペインで同じホーエンツォレルン家が王位を占めることを恐れたフランスは、強く抗議しました。候補はいったん取り下げられます。
それでもフランスは、二度と立候補させないという約束を、保養地エムスに滞在していたプロイセン王ヴィルヘルム1世に求めました。王はこれを断ります。そのやりとりを伝える電報を、ビスマルクは相手を突き放すような調子に縮めて公表しました。「エムス電報事件」と呼ばれる出来事です。両国の世論は一気に燃え上がり、1870年7月19日、フランスはプロイセンに宣戦します。南ドイツの国々も、プロイセンの側について戦いに加わりました。
戦いはドイツ側の優勢で進みます。9月1日から2日にかけて、フランス北東部のセダンでフランス軍は包囲され、軍とともにいた皇帝ナポレオン3世は降伏して捕虜となりました。知らせを受けたパリでは9月4日、帝政の終わりと共和政の成立が宣言されます。新たにできた「国防政府」は戦いを続けましたが、9月19日にはパリがドイツ軍に包囲されました。包囲は4か月に及び、市民は厳しい寒さと食料不足に苦しみ、終盤には砲撃にもさらされました。
1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として宣言され、ドイツ帝国の成立を象徴する式典が行われました。10日後の1月28日に休戦が結ばれ、5月10日のフランクフルト条約で戦争は正式に終わります。フランスはアルザスの大部分とロレーヌ地方の一部を手放し、50億フランという巨額の賠償金を支払うことになりました。支払いが終わるまで、国内の一部にはドイツ軍がとどまり続けました。
カミーユとの結婚、その直後に始まった普仏戦争
戦争が始まる直前、モネはどんな状況にいたのでしょうか。
1870年の春、29歳のモネは、国が主催する公式の展覧会「サロン」で落選しています。サロンは、画家が世に認められるための大切な舞台でした。モネも1866年には、カミーユをモデルにした《緑衣の女》で好評を得ています。けれどもその後は思うような評価が続かず、この年は前の年に続いての落選でした。絵の売れ行きも安定せず、友人に借金を頼むことも少なくありませんでした。
そんななかの6月28日、モネはパリ8区の区役所で、カミーユ・ドンシューと結婚します。二人のあいだには、1867年に生まれた息子ジャンがすでにいました。
4人いた結婚の証人の一人は、画家のギュスターヴ・クールベです。目の前の現実をありのままに描くことを掲げ、パリの美術界で大きな存在感を放っていた先輩でした。
一方、モネの父アドルフはこの結婚に反対していたとされ、式にも出なかったといわれます。ただ、結婚の記録をたどると、父はこの年の4月、ル・アーヴルの公証人を通じて、正式な同意を届けていました。
結婚からわずか3週間後の7月19日、フランスはプロイセンに宣戦します。モネ一家がトルーヴィルで夏を過ごしたのは、ちょうどこの頃のことでした。モネは浜辺でくつろぐカミーユや、海沿いに建つ大きなホテルを描いています。冒頭で紹介した、砂粒の混じった絵もその一枚です。
明るい海辺の絵とは裏腹に、戦況は急速に悪化していきました。8月に入ると、フランス軍は国境近くの戦いで敗北を重ねます。9月2日、フランス北東部のセダンで、皇帝ナポレオン3世が降伏して捕虜になりました。2日後の9月4日、パリでは帝政の終わりと共和政の成立が宣言されます。ドイツ軍はそのままパリへ迫り、9月19日には首都の包囲が始まりました。
戦火を離れ、モネ一家はロンドンへ
1870年の秋、モネはル・アーヴルから船に乗り、ドイツ軍の侵攻を逃れようとする大勢のフランス人とともに、イギリスへ渡りました。夏の行楽シーズンが終わった頃のことです。ナショナル・ギャラリーによれば、トルーヴィルのホテル代が払えず、出発が遅れたこともあったといいます。妻のカミーユと息子のジャンも、ロンドンで一緒に暮らすことになります。
モネはなぜ、国を離れたのでしょうか。
ロンドンのテート・ブリテンは、兵役を避けるためだったと説明しています。召集を逃れることが大きな理由の一つだった可能性は、確かに高いとみられます。ただ、「戦争から逃げた」と一言で片づけてしまうと、見えなくなる事情もあります。
モネには、すでに軍隊の経験がありました。20歳だった1861年、徴兵制度によってアルジェリアの騎兵連隊に入り、北アフリカで約1年を過ごしています。病気で帰国したあと、叔母が費用を出して、残りの兵役を免れました。こうした経歴を持つ人が戦時に再び召集されるのかどうかは、当時の制度が複雑で、簡単には言い切れません。
このときのモネには、結婚したばかりの妻と、3歳になったばかりの息子もいました。絵の買い手もほとんどいないまま、戦場となった国で家族を養っていくのは容易ではありません。家族の安全、日々の暮らし、絵を描き続けること。この出国を、どれか一つの理由だけで説明するのは難しいでしょう。
同じ戦争のなかで、モネとは別の道を選んだ友人がいます。フレデリック・バジールです。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Art Institute of Chicago)/CC0 1.0
南フランス・モンペリエの裕福な家に生まれたバジールは、パリで画家修業をしていた頃からのモネの親友でした。アトリエを分け合い、お金に困ったモネをたびたび助け、モネの大作《庭の女たち》を買い取ってもいます。
そのバジールが1870年8月16日、志願して、ズアーヴ兵と呼ばれる歩兵の連隊に入りました。オルセー美術館は、これを「まったく思いがけない」決断だったと紹介しています。そして11月28日、オルレアンに近いボーヌ=ラ=ロランドで、初めての攻撃に加わったさなかに命を落としました。28歳でした。
モネがロンドンで暮らし始めてまもない頃、パリで築いてきた大切なつながりの一つが、こうして断ち切られました。
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| 1870年春 | サロンに落選 |
| 6月28日 | パリでカミーユと結婚 |
| 7月19日 | フランスがプロイセンに宣戦 |
| 夏 | 一家でノルマンディーのトルーヴィルに滞在 |
| 8月16日 | 親友バジールが志願して入隊 |
| 9月2日 | ナポレオン3世がセダンで降伏 |
| 9月4日 | パリで共和政を宣言、第二帝政が終わる |
| 9月19日 | パリ包囲が始まる |
| 秋(9〜10月頃) | 一家でロンドンへ渡る |
| 11月28日 | バジールが戦死 |
ロンドン亡命|戦争の先でつながった人々
当時のロンドンには、戦争とその後の混乱を逃れたフランス人が数多く身を寄せていました。画家や画商も例外ではありません。モネはこの街で、パリにいた頃とは少し違う人の輪に加わっていきます。
その一人が、カミーユ・ピサロです。モネより10歳年上のピサロとは、1860年頃、パリの画塾で知り合っていたとされます。パリ近郊ルーヴシエンヌにあったピサロの家は、攻め込んできたプロイセン軍に馬小屋として使われ、残してきた作品の多くが失われたといわれます。ピサロは1870年12月、母親たちが暮らしていたロンドン南部のノーウッドに落ち着きました。
ピサロは30年ほどのちの手紙で、この頃をこう振り返っています。「モネとわたしは、ロンドンの風景にすっかり夢中になりました。モネは公園で描き、わたしはノーウッドに住んで、霧や雪や春の効果を研究しました」。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Art Institute of Chicago)/CC0 1.0
もう一人、モネにとって大切な先輩がロンドンにいました。風景画家のシャルル=フランソワ・ドービニーです。
ドービニーは、パリ南東のフォンテーヌブローの森の周辺で身近な自然を描いた「バルビゾン派」と呼ばれる画家たちの一人で、川や水辺の風景を得意としていました。モネは18歳の頃からその作品に心ひかれていたといい、ドービニーは若いモネのよき相談相手でもありました。1870年春のサロンでは審査員を務めていて、モネの作品が落選と決まると、抗議して審査員を辞めたと伝えられています。
ドービニーは1860年代に二度イギリスを訪れていて、バルビゾン派の絵にはこの国にも買い手がつき始めていました。1870年の秋、戦争を避けてロンドンへ渡ると、テムズ川を題材に絵を描いています。
モネの未来を支えた画商デュラン=リュエル
戦争は、モネからバジールという友人を奪い、パリで少しずつ築いてきた人のつながりをばらばらにしました。けれど国境の外には、ピサロとの再会があり、ドービニーという頼れる先輩がいました。そしてモネは、このドービニーを通して、その後の人生を大きく左右する人物と出会うことになります。
その人物が、パリの画商ポール・デュラン=リュエルです。

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デュラン=リュエルは、父の代から続く画廊を営み、コローやミレー、ドービニーといったバルビゾン派の画家たちの作品を扱っていました。パリが包囲される直前の1870年9月半ば、家族と在庫の絵とともにロンドンへ移り、ニュー・ボンド・ストリートに画廊を開きます。12月には「フランス芸術家協会」と名づけた展覧会を始め、フランスの絵画をイギリスの人々に紹介していきました。
ドービニーの紹介でモネと出会ったデュラン=リュエルは、モネの絵を買い、自分の画廊の展覧会に並べました。ピサロの作品も、同じ頃に買い始めています。
もっとも、ロンドンでモネの絵がよく売れたわけではありません。イギリスの王立アカデミーの展覧会に送った作品は落選しました。デュラン=リュエルの計らいで、1871年の国際博覧会にカミーユを描いた一枚が出品されましたが、買い手は現れませんでした。
それでも、この出会いの意味は、そのとき絵が売れたかどうかだけでは測れません。
それまでのモネが目指してきたのは、サロンでの成功でした。年に一度の展覧会に作品を送り、審査を通れば、多くの人の目に触れ、評判が上がり、買い手や注文主も現れるかもしれない。けれども落選すれば、その一年の仕事はほとんど人目に触れないまま終わってしまいます。
デュラン=リュエルのやり方は、これとは違っていました。見込んだ画家の作品を、画商自身がまとめて買い取る。買った絵を手もとに置き、自分の画廊で展覧会を開いて見せる。ロンドンをはじめ、国外にも運んで売る。画家にとっては、審査の結果を待たなくても、描いた絵が収入に変わる道が開けることになります。
その効果がはっきり表れるのは、戦争が終わってからです。フランスに戻った翌年の1872年、デュラン=リュエルはモネの絵を29点、9,880フランで買い取り、1873年にはさらに34点を1万9,100フランで買いました。このお金が、アルジャントゥイユでの暮らしと制作を支えていきます。二人の関係はその後も長く続き、デュラン=リュエルが買い取ったモネの作品は、およそ1,000点にのぼりました。
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| 1870年9月半ば | 画商デュラン=リュエルが、家族と在庫の絵とともにロンドンへ |
| 秋 | ドービニーがロンドンへ |
| 秋(9〜10月頃) | 一家でロンドンへ渡る |
| 12月初め | ピサロがロンドン南部のノーウッドに落ち着く |
| 12月 | デュラン=リュエルが「フランス芸術家協会」の展覧会を始める |
| ロンドン滞在中 | ドービニーの紹介でデュラン=リュエルと出会う |
| 1871年 | 王立アカデミーの展覧会に落選。国際博覧会に出品した《瞑想(長椅子のモネ夫人)》も売れず |
| 1872年 | デュラン=リュエルがモネの絵を29点、9,880フランで買い取る |
| 1873年 | さらに34点を1万9,100フランで買い取る |
モネが描いたロンドン|テムズ川と英国風景画
ロンドンにいた7〜8か月のあいだに、モネが描いた風景画は5、6点しか知られていません。その一つが、冒頭で紹介した《ウェストミンスター橋下のテムズ》です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:National Gallery, London)/Public Domain
画面に見える国会議事堂は、1834年の火事で焼けたあとに建て直され、この頃ようやく完成したばかりでした。ウェストミンスター橋も、1862年に開通した新しい橋です。右手の川岸には「ヴィクトリア・エンバンクメント」と呼ばれる新しい堤防と道路が造られたところで、桟橋の上の人影は、その仕上げの工事をしている作業員たちです。
モネが選んだのは、古くからの名所ではなく、生まれ変わりつつある近代都市の姿でした。その街を、くっきりした輪郭ではなく、湿った空気の向こうに描いています。石炭の煙が混じるロンドンの霧は濃く、建物も舟も、影のようにぼんやりと浮かんで見えます。
モネは、ロンドンの公園も描いています。1870年から翌年にかけての冬に描かれた《ハイド・パーク》と《グリーン・パーク》です。
クロード・モネ作『グリーン・パーク』

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain
湿った芝生を、ぬかるんだ小道が横切っていく冬の公園の風景です。遠くには、ワーテルローの戦いでナポレオン1世を破ったウェリントン公をたたえる騎馬像も、小さく見えています。
クロード・モネ作『ハイド・パーク』

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Philadelphia Museum of Art)/CC BY-SA 4.0
散歩する人たちが小道を外れ、芝生の上を思い思いに歩いています。芝生に入ることが禁じられていたパリの公園とは違う、ロンドンの公園の日常でした。
ロンドンで描いた絵には、家族の姿もあります。オルセー美術館が所蔵する《瞑想(長椅子のモネ夫人)》では、本を手にしたカミーユが、長椅子に身をあずけてもの思いにふけっています。飾りの少ない部屋ですが、暖炉の上には日本の扇と青い陶磁器が置かれています。先ほど触れた、1871年の国際博覧会に出品され、買い手がつかなかったのが、この絵です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Siren-Com)/CC BY-SA 4.0
ここで一つ、区別しておきたいことがあります。モネのロンドンの絵としてよく知られているのは、霧の中の国会議事堂や橋を描いた、1900年前後の作品群です。モネは1899年から3年続けて冬のロンドンに滞在し、テムズ川に架かる橋や国会議事堂を100点近い画面に描きました。これらの作品は1904年、デュラン=リュエルの画廊でまとめて発表されます。
1871年の絵は、それより30年ほど前のものです。同じ場所を、時間や天気を変えて何枚も描き分ける「連作」の考え方は、まだここにはありません。けれど、川、橋、煙、湿った大気、そして近代都市という題材は、すでにそろっています。のちにモネは、ロンドンにすばらしい広がりを与えているのは霧だ、と語りました。若い日に暮らした霧の街に、モネは60歳を前にして、画家としてもう一度向き合うことになったのです。
ターナーはモネを変えたのか
ロンドンのモネを語るとき、よく名前が挙がるのが、イギリスの風景画家ターナーとコンスタブルです。
J・M・W・ターナー(1775〜1851)は、嵐の海や、光の中に溶けていくような空気を描いた画家。ジョン・コンスタブル(1776〜1837)は、空や雲の移り変わりを、戸外で何度も写し取ったことで知られています。どちらも、モネより前の時代に、光や大気を描くことに力を注いだ画家でした。

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モネがロンドンの美術館で、こうした英国風景画を目にした可能性は高いと考えられています。先ほどのピサロの手紙には、続きがあります。「わたしたちは美術館にも通いました。ターナーやコンスタブルの水彩画や油彩画、オールド・クロームの絵は、確かにわたしたちに影響を与えました」。オールド・クロームとは、イギリス東部の町ノリッジで活躍した風景画家ジョン・クロームのことです。ピサロはさらに、自分たちが特に心を打たれたのは、戸外の光や、移ろいやすい自然の表情を追うという点で、目指すものの近い風景画家たちだった、と書いています。
ただし、この手紙が書かれたのは1902年。ロンドン滞在から30年以上たってからのことで、しかもピサロの側から見た思い出です。1870〜71年当時のモネ自身の手紙から、「ターナーを見て描き方を変えた」と読み取れるような記録は見つかっていません。
そもそもモネは、ロンドンに来る前から、水や光、空や反射を描くことに取り組んでいました。
10代の終わりには、少年時代を過ごしたル・アーヴルで風景画家ブーダンと出会い、戸外で目の前の自然を見ながら描くことを学びました。1862年には、ノルマンディーの海岸でオランダ出身の画家ヨンキントと知り合い、港や雲や水面を素早くとらえる描き方に触れています。そして1869年の夏には、パリ西郊のセーヌ川の行楽地ラ・グルヌイエールで、ルノワールと並んで同じ水辺を描きました。揺れる水面や、そこに映る舟や木々を、短い筆のタッチで描き分けていく。モネはこの頃すでに、そうした描き方を試みていたのです。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/Public Domain
ロンドンでモネが初めて光や大気に目覚めた、というわけではありません。すでに追いかけていた課題を抱えて海を渡り、その先で、同じように空や水の移ろいを描いてきたイギリスの風景画と出会った。そう考えるほうが、モネの歩みには近いでしょう。
オランダを経て、アルジャントゥイユへ
モネがロンドンで暮らしているあいだに、戦争そのものは終わりに向かっていました。1871年1月、包囲に耐えてきたパリは力尽き、休戦が結ばれます。
けれども、フランスの混乱はそれでは収まりませんでした。3月、政府と対立したパリの市民たちが、独自の自治政府「パリ・コミューン」を立ち上げます。コミューンは5月の終わりに政府軍によって鎮圧され、2万人ほどが命を落としたといわれます。モネの結婚の証人だったクールベもコミューンに加わり、のちに逮捕されて、6か月の禁固刑を受けました。
その頃、モネ一家はロンドンを離れます。向かった先はフランスではなく、オランダでした。メトロポリタン美術館の作品解説によれば、オランダ行きはドービニーの勧めだったといいます。
アムステルダムにほど近い町ザーンダムに着いたモネは、1871年6月2日付の手紙で、ピサロにこう書き送っています。「ザーンダムはとりわけすばらしいところで、一生かかっても描ききれないほどの題材があります。色とりどりの家々、何百もの風車、魅力的な舟」。
一家はここに約4か月滞在し、モネは25点ほどの油彩を描きました。描いたのは、町を流れるザーン川と、水辺に並ぶ木造の家々、行き交う舟、港、小さな橋。風車も描いていますが、それだけではありません。メトロポリタン美術館の《アハターザーンの家々》では、川岸に並ぶ小さな家々と、澄んだ水面、青い空が描かれています。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/CC0 1.0
ロンドンのテムズ川から、オランダのザーン川へ。暮らす国が変わっても、モネが絵筆を向けたのは、やはり水辺の町でした。
ザーンダムには、もう一つよく知られた話があります。モネがこの町の店で、品物の包み紙として使われていた日本の浮世絵を見つけた、というものです。のちに浮世絵の熱心な収集家となるモネの「最初の一枚」として語られることもあります。ただ、それを裏づける当時の記録は見つかっておらず、モネが初めて浮世絵を手に入れた時期や場所は、はっきりしていません。
秋になると、一家はオランダを離れ、フランスへ戻りました。
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| 1871年1月28日 | パリが降伏し、休戦 |
| 3〜5月 | パリ・コミューン。5月末に政府軍が鎮圧 |
| 5月10日 | フランクフルト条約で、戦争が正式に終わる |
| 6月初め | 一家でオランダのザーンダムへ |
| 6月〜秋(約4か月) | ザーンダムで25点ほどの油彩を描く |
| 秋 | フランスへ戻る |
| 12月 | アルジャントゥイユに住まいを構える |
セーヌ河畔で始まる、新しい暮らし
その年の12月、モネ一家はパリの北西、セーヌ川沿いの町アルジャントゥイユに住まいを構えます。庭のある家でした。一家はここで、1878年の初めまで、6年ほどを過ごすことになります。
アルジャントゥイユは、パリのサン=ラザール駅から列車で手軽に行ける郊外の町です。セーヌ川にはヨットが浮かび、休日には舟遊びや水浴びを楽しむ人々でにぎわいました。その一方で、川には鉄道橋が架かり、岸辺には工場の煙突も立っていました。自然と行楽、鉄道と工場が、一つの景色のなかに並んでいる。モネがここで出会ったのは、そんな新しい郊外の風景でした。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain
戦争の前と後で、画家としてのモネを取り巻く状況は、ずいぶん変わっていました。
戦争の前のモネは、パリを拠点に、サロンでの成功を目指す若い画家でした。1866年に好評を得たものの、その後は思うような評価を得られず、暮らしはバジールをはじめとする友人たちの助けに頼るところが大きかったのです。
戦争のあとでアルジャントゥイユに移ってきたモネは、ロンドンとオランダでの暮らしを経験し、ピサロやドービニーとのつながりを深め、作品をまとめて買い取ってくれる画商デュラン=リュエルを得ていました。
ここから、モネの仕事は大きく広がっていきます。デュラン=リュエルの買い取りに支えられて、モネはアルジャントゥイユの川や橋、ヨット、鉄道、雪の日の町、そして庭で過ごすカミーユとジャンの姿を、くり返し描きました。同じ場所を、季節や天気を変えて何枚も描く習慣が身についていったのも、この頃です。
川の上から描くための「アトリエ舟」を手に入れたのも、アルジャントゥイユ時代のことでした。小舟の上に板張りの小屋を載せ、画材を積んだまま川へ出られるようにしたものです。この舟には先例がありました。ドービニーもかつて、舟をアトリエに仕立て、川をめぐりながら絵を描いていたのです。
そして1874年の春、モネは仲間たちとともに、サロンとは別に、自分たちの手で展覧会を開きます。モネが出品した一枚に、少年時代を過ごしたル・アーヴルの港を描いた《印象・日の出》がありました。この題名をからかった新聞記事をきっかけに、彼らはやがて「印象派」と呼ばれるようになります。
画家仲間との行き来も続きました。ルノワールはたびたびモネを訪ねて、そばで絵を描きました。同じ年の夏には、先輩画家のマネもアルジャントゥイユに通い、アトリエ舟の上で制作するモネの姿をカンヴァスに残しています。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Yelkrokoyade)/CC BY-SA 4.0
とはいえ、アルジャントゥイユの日々が、そのまま順調に続いたわけではありません。1874年頃からデュラン=リュエル自身の資金繰りが苦しくなり、買い取りが減ると、モネの暮らしは再び不安定になっていきました。
戦争の向こうで見えてくる、モネという人
《睡蓮》や《印象・日の出》の画家と聞くと、やわらかな光や静かな水面を思い浮かべる人が多いかもしれません。けれど、1870年からの一年あまりをたどってみると、その絵の向こうにいる人の姿が、少し違って見えてきます。
このときのモネは、まだ30歳になったばかりでした。巨匠と呼ばれるのは、ずっと先のことです。結婚したばかりの妻と幼い息子を抱え、暮らしもまだ安定しないまま戦争に巻き込まれ、海を渡った一人の若い画家でした。
意外なのは、その頃の絵に、戦争そのものが描かれていないことです。開戦の夏には浜辺でくつろぐカミーユを、ロンドンでは霧の中の川や冬の公園を、オランダでは色とりどりの家が並ぶ水辺を描いています。親しい友人を失い、国を離れたまま迎えた翌年の初夏には、ザーンダムからピサロに「一生かかっても描ききれないほどの題材がある」と書き送ってもいました。
穏やかに見えるそれらの絵は、穏やかな暮らしの中で描かれたものではありませんでした。自分ではどうすることもできない出来事に暮らしを揺さぶられながら、たどり着いた先で、描くべき景色を見つけていく。モネは、静かな場所でただ光や水面を見つめていた画家ではなかったのです。
このあともモネは、何度も暮らす場所を変えていきます。いつか《睡蓮》や《印象・日の出》の前に立つことがあったら、その画面の奥に、霧のテムズ川やザーンダムの水辺を見つめていた30歳のモネを、少しだけ重ねてみてください。見慣れた絵が、これまでとは少し違って見えてくるかもしれません。
引用・参考元はこちら
◾️大学・美術館・コレクション
ロンドン・ナショナル・ギャラリー「The Beach at Trouville」
┗ https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/claude-monet-the-beach-at-trouville
ロンドン・ナショナル・ギャラリー(Google Arts & Culture)「Monet: The Thames below Westminster」
┗ https://artsandculture.google.com/story/monet-the-thames-below-westminster-the-national-gallery-london/lgWxDFXzPLGdIg
テート・ブリテン「Exhibition Guide: Impressionists in London」
┗ https://www.tate.org.uk/whats-on/tate-britain/ey-exhibition-impressionists-london/exhibition-guide-impressionists
テート・ブリテン「The EY Exhibition: Impressionists in London, French Artists in Exile 1870–1904」(大活字版ガイド)
┗ https://www.tate.org.uk/documents/1306/impressionists_in_london_lpg_combined.pdf
テート「Eight things to know: Impressionists in London」
┗ https://www.tate.org.uk/art/art-terms/i/impressionism/eight-things-know-impressionists-london
フィラデルフィア美術館「Green Park, London」
┗ https://www.philamuseum.org/objects/104454
フィラデルフィア美術館「Discovering the Impressionists: Paul Durand-Ruel and the New Painting」
┗ https://press.philamuseum.org/discovering-the-impressionists-paul-durand-ruel-and-the-new-painting/
RISDミュージアム「Hyde Park, London」
┗ https://risdmuseum.org/art-design/collection/hyde-park-london-42218
オルセー美術館「Méditation. Madame Monet au canapé」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/meditation-madame-monet-au-canape-806
オルセー美術館「Femmes au jardin」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/femmes-au-jardin-807
オルセー美術館「Frédéric Bazille (1841-1870). The Youth of Impressionism」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/program/whats-on/exhibitions/presentation/frederic-bazille-1841-1870-youth-impressionism
オルセー美術館「Courbet and the Commune」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/program/whats-on/exhibitions/presentation/courbet-and-commune
メトロポリタン美術館「Houses on the Achterzaan」
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459107
メトロポリタン美術館「La Grenouillère」
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437135
メトロポリタン美術館「The Monet Family in Their Garden at Argenteuil」
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436965
シカゴ美術館『Monet Paintings and Drawings at the Art Institute of Chicago』「The Artist’s House at Argenteuil」
┗ https://publications.artic.edu/node/135551
サンフランシスコ美術館(FAMSF)「Monet: The Early Years」
┗ https://digitalstories.famsf.org/early-monet/
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート「1874: The Birth of Impressionism」(2024年9月4日)
┗ https://www.nga.gov/stories/articles/1874-birth-impressionism
バイエルン州立絵画コレクション(ピナコテーク)「Die Barke」
┗ https://www.sammlung.pinakothek.de/en/artwork/o5xr0jMG7X/edouard-manet/die-barke
ザーンス美術館「Claude Monet」
┗ https://zaansmuseum.nl/en/claude-monet/
ザーンス美術館「Claude Monet in Zaandam」
┗ https://zaansmuseum.nl/en/see-do/claude-monet-in-zaandam/
リュクサンブール美術館「Claude Monet」
┗ https://museeduluxembourg.fr/fr/actualite/claude-monet
プティ・パレ(パリ市立美術館)「Les Impressionnistes à Londres」プレス資料(APHG掲載)
┗ https://www.aphg.fr/IMG/pdf/dp_impressionnistes_fr.compressed.pdf
クロード・モネの家と庭園(ジヴェルニー)「Timeline」
┗ https://claudemonetgiverny.fr/en/decouvrir/timeline/
クロード・モネの家と庭園(ジヴェルニー)「Camille, l’autre Madame Monet…」
┗ https://claudemonetgiverny.fr/actualites/camille-lautre-madame-monet/
クロード・モネの家と庭園(ジヴェルニー)「La tante Lecadre : un soutien décisif pour Claude Monet」
┗ https://claudemonetgiverny.fr/actualites/la-tante-lecadre-un-soutien-decisif-pour-claude-monet/
◾️公的機関・研究機関
フランス軍事省 Chemins de mémoire「Comprendre la guerre de 1870」
┗ https://www.cheminsdememoire.gouv.fr/fr/revue/comprendre-la-guerre-de-1870
ドイツ歴史博物館(DHM)LeMO「Deutsch-Französischer Krieg 1870/71」
┗ https://www.dhm.de/lemo/kapitel/kaiserreich/reich/krieg1870
ドイツ歴史博物館(DHM)LeMO「1871 – Reichsgründung im Krieg」
┗ https://www.dhm.de/lemo/rueckblick/lemo-rueckblick-1871-reichsgruendung-im-krieg
ドイツ歴史博物館(DHM)LeMO「Reaktionszeit」
┗ https://www.dhm.de/lemo/kapitel/reaktionszeit
ナポレオン財団「Préliminaires de paix (Versailles, le 26 février 1871) et Traité de Francfort (10 mai 1871)」
┗ https://www.napoleon.org/histoire-des-2-empires/articles/document-preliminaires-de-paix-versailles-le-26-fevrier-1871-et-traite-de-francfort-10-mai-1871/
◾️書籍・学術誌
Wynford Dewhurst『Impressionist Painting: Its Genesis and Development』(1904年、Project Gutenberg)
┗ https://www.gutenberg.org/files/69533/69533-h/69533-h.htm
Nineteenth-Century Art Worldwide「The Origins of the Taste for Barbizon Painting in Britain: Paul Durand-Ruel’s Exhibitions of the Society of French Artists」(Kelly Watson)
┗ https://www.19thc-artworldwide.org/autumn24/kelly-watson-on-paul-durand-ruels-exhibitions-of-the-society-of-french-artists
◾️専門メディア・記事
Apollo「How Daubigny inspired Impressionism」
┗ https://apollo-magazine.com/how-daubigny-inspired-impressionism/
The Eclectic Light Company「Herald of Impressionism: Charles Daubigny 2」
┗ https://eclecticlight.co/2026/07/26/herald-of-impressionism-charles-daubigny-2/
givernews「Le mariage de Claude Monet et Camille Doncieux」
┗ https://givernews.com/2012/12/14/le-mariage-de-claude-monet-et-camille-doncieux/
The Norwood Society「Pissarro and Norwood」
┗ https://www.norwoodsociety.co.uk/articles/pissarro-and-norwood
◾️その他(百科事典)
ブリタニカ「Franco-German War」
┗ https://www.britannica.com/event/Franco-German-War
Encyclopedia.com(The Columbia Encyclopedia)「Ems dispatch」
┗ https://www.encyclopedia.com/reference/encyclopedias-almanacs-transcripts-and-maps/ems-dispatch
ラルース百科事典「Claude Monet」
┗ https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Claude_Monet/133685
Wikipedia「Houses on the Achterzaan」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/Houses_on_the_Achterzaan
Wikipedia(フランス語版)「Claude Monet」
┗ https://fr.wikipedia.org/wiki/Claude_Monet
