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ヨハネス・フェルメール《デルフトの眺望》1660〜61年頃、油彩・カンヴァス、マウリッツハイス美術館(デン・ハーグ)所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:マウリッツハイス美術館)/Public Domain
フェルメールの人生は、デルフトの小さな旧市街に重なっている
フェルメールと聞いて、窓から光が差しこむ静かな部屋を思い浮かべる人は多いでしょう。では、その部屋の外には、どんな町が広がっていたのでしょうか。
ヨハネス・フェルメールが生まれ、家族をもち、画家として働き、そして葬られたのは、ハーグとロッテルダムのあいだにある町、デルフトでした。洗礼を受けた教会、少年時代を過ごした父の宿屋、結婚後に暮らした家、画家たちの組合の会館、墓のある教会。記録に残るこれらの場所は、運河に囲まれた旧市街の中の、歩いて行き来できる範囲に収まっています。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:デルフト市公文書館)/Public Domain/マーカー:+び。加工
もっとも、フェルメールが一度もデルフトを出なかったわけではありません。結婚式は近くの村の教会で挙げていますし、晩年にはハーグで絵の鑑定に加わっています。画家としての修業をどこで積んだのかも、分かっていません。
それでも、記録からたどれる暮らしの拠点は、はじめから終わりまでデルフトにありました。
この記事では、町の中の場所を一つずつ訪ねるようにして、フェルメールがどこで、誰と、どんな仕組みの中で暮らしたのかを見ていきます。
新教会とマルクト|1632年、デルフトの画商の家に生まれる
デルフトの町の真ん中には、マルクトと呼ばれる細長い広場があります。東の端には新教会(ニーウェ・ケルク)の高い塔がそびえ、西の端には市庁舎が向かい合って建っています。
この新教会で、1632年10月31日、一人の男の子が洗礼を受けました。記録には、父レイニエル、母ディフナの名前が書きこまれています。のちの画家ヨハネス・フェルメールです。生まれた日そのものは記録に残っていないため、この日付は誕生日ではなく、洗礼を受けた日です。
当時のデルフトは、人口2万数千人ほどの町でした。古くから醸造や織物で栄え、17世紀の後半にかけては陶器づくりにも重心を移していきます。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:デルフト市公文書館)/Public Domain/マーカー:+び。加工
父レイニエルは、そうした町の仕事をいくつも掛け持ちした人でした。「カファ」と呼ばれる上等な絹織物の職人として働き、宿屋の主人もつとめ、1631年には画家や美術品を扱う人々が属する聖ルカ組合に、画商として登録されています。フェルメールは、代々の画家の家ではなく、商売と絵画がすぐそばにある家に生まれたのです。
少年時代の前半、一家はマルクトの北側を流れる運河沿いの通り、フォルデルスフラフトに住んでいました。のちに聖ルカ組合の会館が置かれ、フェルメール自身が深くかかわることになる通りです。
幼いヨハネスがどんな学校へ通い、いつ画家になろうと決めたのか。それを伝える記録は見つかっていません。
宿屋メーヘレン|少年時代から暮らした、絵と商売が交わる家
1641年5月、一家はマルクト広場の北側に建つ大きな宿屋「メーヘレン」に移り住みます。ヨハネスは8歳でした。広場の東に新教会、西に市庁舎をのぞむ角地で、町でもとりわけ人の行き交う場所です。父はここで宿を営みながら、絵の売り買いも続けました。
宿屋の壁に絵が掛かり、画家や買い手が出入りする。そんな光景を思い描きたくなりますが、特定の画家がここを訪れた記録も、少年フェルメールがここで絵を習った記録もありません。言えるのは、絵を扱う父のもとで、絵を目にする機会の多い環境に育った可能性が高い、というところまでです。
父レイニエルは1652年に亡くなり、宿屋の営業は母ディフナが引き継ぎました。フェルメールは父の絵の商売を受け継いだと考えられていますが、それを直接示す記録は、フェルメールの死後に作られたものです。
その2年後、メーヘレンは災難に見舞われます。1654年10月、町の中の火薬庫が爆発し、デルフトじゅうの建物が被害を受けました。2023年、地元のプリンセンホフ博物館は、ディフナがこのときメーヘレンの損害について補償を受けていたことを示す記録を紹介しました。爆発そのものについては、後の章であらためてたどります。

宿屋はその後も一家の手に残りました。ディフナは1663年に建物を売ろうとしましたが、望む値がつかず、人に貸すことにします。1670年に母が亡くなると、メーヘレンはフェルメールが相続しました。1672年1月14日、フェルメールがこの建物を薬剤師ヨハネス・ファン・デル・メールに年180ギルダーで貸した契約書が残っています。少年時代の住まいは、このころには家賃を生む財産になっていました。
Oude Langendijk|結婚後、大家族と暮らしたカトリック地区

画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain
1653年4月、20歳のフェルメールはカタリーナ・ボルネスと結婚し、デルフト近郊の村スヒプライデンのカトリック教会で式を挙げました。フェルメール自身は、オランダで公の立場にあったプロテスタントの教会(改革派)で洗礼を受けていましたが、カタリーナと母マリア・ティンスはカトリックでした。結婚の手続きの際、マリア・ティンスは同意の書類に署名しませんでした。それでも最終的には、結婚を妨げないと認めています。反対の理由は、記録には書かれていません。
やがて夫妻は、新教会にほど近いアウデ・ランゲンダイクという通りに住まいを定めます。幼くして亡くなった子どもを葬ったときの記録から、遅くとも1660年の暮れには、義母マリア・ティンスと同じ家で暮らしていたことが分かります。
家があったのは、「パーペンフック(カトリック教徒の一角)」と呼ばれた地区の、モーレンポールトという路地の近くでした。当時のオランダでは、カトリックの公の礼拝が制限されていました。家の隣にはカトリックの修道会であるイエズス会の拠点があり、700人が入れる大きな「隠れ教会」と、女の子のための学校を備えていました。隠れ教会とは、外見はふつうの建物のまま、中で礼拝が行われていた教会のことです。
フェルメールが改宗したことを示す正式な記録は、見つかっていません。ただ、息子の一人がイエズス会の創設者にちなんでイグナティウスと名づけられていることなどから、改宗した可能性は高いと考えられています。
夫妻のあいだには14人か15人の子どもが生まれ、そのうち11人が幼い時期を越えて育ちました。静かな室内画の印象とは違って、家の中は義母を含む三世代の大所帯でした。
フェルメールの死後に作られた家財の目録には、部屋ごとの家具や絵、画材とともに、作品に描かれた白い毛皮縁の黄色い上着によく似た衣服も記されています。とはいえ、絵の中の部屋がこの家の一室をそのまま写したものだとは言えません。家がいまのどの建物にあたるのかも、確かめられていません。
Voldersgrachtと聖ルカ組合|画家・画商として働いたデルフト

位置関係を簡略化して描いたイラストです。実際の町の姿は、そちらの地図でご覧いただけます。
結婚した年の12月29日、フェルメールはデルフトの聖ルカ組合に親方の画家として登録されました。聖ルカ組合は、画家の守護聖人ルカの名をもつ職業団体で、町の決まりにもとづいて、誰が親方として仕事をし、弟子をとり、作品を売ることができるかを取り仕切っていました。この登録で、フェルメールは独立した画家として仕事ができるようになります。
組合には画家のほか、ガラス職人や陶工、印刷業者なども属していました。名簿には、《ごしきひわ》で知られるカレル・ファブリティウスや、室内や中庭の絵を多く描いたピーテル・デ・ホーホの名前も見えます。
組合の会館は1661年から、フォルデルスフラフト沿いの、もとは老人のための施設の礼拝堂だった建物に置かれました。メーヘレンの脇の路地を北へ抜けた先、フェルメールが幼いころに暮らした通りです。建物は19世紀に取り壊され、いま同じ場所に建つフェルメール・センター・デルフトは、外観を復元したものです。
組合は6人の役員で運営され、毎年3人ずつが入れ替わりました。フェルメールは1662年から63年、そして1670年から71年にかけて、この役員を務めています。これは「デルフトいちの画家に選ばれた」という意味ではありません。同業者から、組合の運営を任されるだけの信用を得ていた、ということです。
フェルメールの仕事は、自分の絵を描くことにとどまりませんでした。妻カタリーナの後の証言によれば、夫はほかの画家の絵を買い入れて商売をしていました。1672年の春には、ハーグでイタリア絵画とされた作品群の真贋を判断する場にも呼ばれています。
町の外から訪ねてくる人もいました。1663年の夏にはフランスの旅行者バルタザール・ド・モンコニが訪れ、1669年にはハーグの裕福な家の青年ピーテル・テディング・ファン・ベルクハウトが2度足を運んで、フェルメール自身から何点もの絵を見せてもらっています。デルフトの中にも、フェルメールの絵をまとまって持つ収集家がいました。
>>フェルメールには「パトロン」がいた?|作品を集めた夫妻と2025年の新研究
『小路』『デルフトの眺望』|フェルメールが描いた二つのデルフト
室内の情景が多いフェルメールの作品のなかで、町そのものを描いたものとして残っているのは、《小路》と《デルフトの眺望》の2点です。
『小路』

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain
《小路》(1658年頃)には、レンガ造りの家の正面と、その脇の路地が描かれています。戸口で手仕事をする女性、路地の奥で働く女性、道ばたにしゃがむ子どもたち。どこにでもありそうな町の一角が、一枚の絵の主題になっています。
この家の場所は長いあいだ議論されてきましたが、2015年、アムステルダム大学の研究者が、運河の底の泥をさらう費用を家ごとに割り当てた1667年の税の台帳から、場所を割り出したと発表しました。アムステルダム国立美術館は現在、この絵の場所をフラミングストラート40〜42番地としています。
同館によると、右側の家には、フェルメールの父の異母きょうだいにあたるおば、アリアーンチェ・クラースが、1645年ごろから1670年に亡くなるまで子どもたちと暮らしていました。夫を亡くした彼女は、牛などの胃袋を売って5人の子どもを養い、家の脇の路地は「ペンスポールト(胃袋の門)」と呼ばれていたそうです。同じ運河沿いの斜め向かいには、フェルメールの母と姉も住んでいました。
2025年に発表された調査では、戸口の扉がはじめは閉じた状態で描かれていたことなど、描きながら画面を変えていった跡も見つかっています。
フェルメールはなぜ描き直した?|科学調査で見えた制作途中の試行錯誤
『デルフトの眺望』

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:マウリッツハイス美術館)/Public Domain
《小路》が家の前の小さな一角だとすれば、《デルフトの眺望》(1660〜61年頃)は町の全体を離れた場所から描いた、横1メートルを超える大きな作品です。所蔵するマウリッツハイス美術館によれば、町の南東側から、コルクと呼ばれる三角形の港ごしに見た景色で、左にスヒーダム門、右にロッテルダム門が並びます。
その奥に、明るい黄色の絵具を厚く塗られ、光を受けて立っているのが、フェルメールが洗礼を受けた新教会の塔です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:マウリッツハイス美術館)/Public Domain/ラベル:+び。加工
画面は、手前の水面、中ほどの町並み、上の空という三つの横の帯に分かれています。実はフェルメールは、実際の景色を少し整えて描きました。二つの門をつなぐ橋は実物よりまっすぐで長く、ロッテルダム門とそれに続く建物は、水面近くまで低く描かれています。本当の町並みはもっと雑然としていたと、美術館は説明しています。
《小路》も《デルフトの眺望》も、フェルメールが暮らした町を描いています。けれども、どちらも町をそのまま写しとった記録ではありません。暮らしのすぐそばにあった景色を選び、手を加えて整えながら、一枚の絵に仕立てたものでした。
1654年と1672年|町と家計を揺らした二つの出来事
フェルメールが暮らした時代のデルフトを、大きく揺るがした年が二つあります。
1654年「デルフトの雷鳴」
一つめは1654年です。10月12日、町の中にあった火薬庫が爆発しました。「デルフトの雷鳴」と呼ばれるこの事故で、火薬庫のまわりの家並みは壊滅し、町じゅうの建物が何らかの被害を受けました。死者の数は資料によって大きく異なりますが、多くの人が命を落とし、その中には画家カレル・ファブリティウスもいました。
先に見たとおり、メーヘレンも被害を受け、母ディフナは補償を受け取っています。けれども、フェルメール本人がけがをしたり、制作を中断したりしたことを示す記録はなく、この爆発が彼の作風を変えたと言える根拠もありません。
1672年「災厄の年(ランプヤール)」
二つめは1672年、オランダで「災厄の年(ランプヤール)」と呼ばれる年です。共和国はフランスやイングランドなどから相次いで攻撃を受け、ホラント州は広い土地をわざと水に沈めて敵の進軍を防ぎました。デルフトが占領されることはありませんでしたが、戦争は商売やお金の貸し借り、人々の暮らし向きにまで影を落とします。
フェルメール家の家計も、このころから急速に苦しくなりました。夫の死後、カタリーナは債務の整理を願い出た書類の中で、長く続いたフランスとの戦争のために夫はほとんど稼ぐことができず、商売のために買い入れたほかの画家の絵も、大きな損を出して手放すしかなかったと述べています。
もっとも、これは救済を求めるための書類です。困窮の理由を、避けようのない出来事として説明する立場にあったことは、差し引いて読む必要があります。大勢の子どもを養う暮らし、画商として抱えていた在庫、もともと競争の激しい絵画の市場。戦争は、そうした条件が重なったところに加わった大きな打撃だったと考えられます。
なお、戦争が本格的に始まる前の1672年1月、フェルメールはメーヘレンを年180ギルダーで貸し出していました。相続した建物の家賃も、一家の収入の一つでした。
町の建物を壊した1654年と、暮らしとお金の流れを揺さぶった1672年。同じく町を揺らした出来事でも、フェルメールの人生への響き方は違っていました。
【作成中】>>「17世紀オランダ社会史」(1672年・宗教・都市の美術市場)

旧教会|1675年、デルフトで生涯を閉じる
1675年12月の第2週、フェルメールは43歳で亡くなりました。妻カタリーナによれば、借金と大勢の子どもを抱えた暮らしをひどく思い悩み、元気だったところから急に衰えて、1日半ほどで息を引き取ったといいます。病名は記録されておらず、死因は分かっていません。
葬られたのは、マルクトから少し歩いた運河沿いに建つ旧教会(アウデ・ケルク)です。埋葬の記録は2種類残っていて、教会の一般の埋葬記録には12月15日、個人が所有する墓の記録には16日の日付があります。いずれも埋葬にかかわる日付で、亡くなった日そのものは定かではありません。墓は義母マリア・ティンスが所有していたもので、先に亡くなっていた子どもの棺が、フェルメールの棺の上に納められました。
近年見つかった別の記録によると、棺は14人の担ぎ手によって運ばれ、教会の鐘も鳴らされました。借金を抱えながらも、葬儀はきちんとした形で営まれたのです。費用は義母が出したのではないか、と記録を見つけた元文書館員はみています。
翌1676年には家財の目録が作られ、カタリーナは債務の整理を願い出ることになります。
新教会で洗礼を受けてから、旧教会に葬られるまで。43年の人生の始まりと終わりは、同じ旧市街の、歩いて行き来できる二つの教会に記録されています。

画像出典:アムステルダム国立美術館/Public Domain
フェルメールにとって、デルフトは何だったのか
フェルメールがデルフトという町をどう思っていたのか。それを伝える本人の手紙や日記は残っていません。「故郷を愛したから、この町を離れなかった」と言い切ることはできないのです。
それでも、記録をつないでいくと、デルフトが彼の人生の中でどんな場所だったのかは見えてきます。義母や妻、大勢の子どもたちと暮らした町。父から絵の商売とのつながりを受け継いだ町。組合に登録して独立し、その運営も担い、絵を売り買いし、収集家や町の外からの訪問者を迎え、家族を養うために働いた町。
そして《小路》や《デルフトの眺望》では、その町自体が絵の主題にもなりました。
窓辺に光が差す静かな部屋の絵を前にすると、私たちはつい、その部屋だけで完結した世界を思い浮かべます。けれども、部屋の外には、父の宿屋や二つの教会、組合の会館、親族の住む通りがあり、爆発や戦争に揺れる町の暮らしがありました。フェルメールの静かな室内をより深く味わうには、部屋の外に広がっていたデルフトという町にも、目を向けてみる必要がありそうです。
引用・参考元はこちら
◼️研究・論文
Piet Bakker & Judith Noorman, “Women’s Vermeers. Maria de Knuijt and New Archival Documentation on Vermeer’s Primary Patron,” in Pieter Roelofs (ed.), Closer to Vermeer, Rijksmuseum, 2025, pp. 146–164
┗ https://www.thefemaleimpact.org/results/
John Michael Montias, “Vermeer’s Clients and Patrons,” The Art Bulletin, vol. 69, no. 1, 1987
┗ https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/00043079.1987.10788402
◼️大学・美術館・コレクション
アムステルダム大学「Was Vermeer’s main client a woman?」(2025年7月10日)
┗ https://www.uva.nl/shared-content/uva/en/news/press-releases/2025/07/was-vermeers-main-client-a-woman.html
The Female Impact(アムステルダム大学の研究プロジェクト)
┗ https://www.thefemaleimpact.org/
マウリッツハイス美術館「Girl with a Pearl Earring」
┗ https://www.mauritshuis.nl/en/our-collection/artworks/670-girl-with-a-pearl-earring
Google Arts & Culture(マウリッツハイス美術館)フェルメールの結婚についてのストーリー
┗ https://artsandculture.google.com/story/JwWRRl2sYh3UKg
The Leiden Collection「Johannes Vermeer」
┗ https://www.theleidencollection.com/artists/johannes-vermeer/
The Leiden Collection「Gerrit Dou and His Collectors in the Golden Age」
┗ https://www.theleidencollection.com/essays/gerrit-dou-and-his-collectors-in-the-golden-age/
The Frick Collection「Vermeer: provenance」(アーカイブ)
┗ https://stage.frick.org/sites/default/files/archivedsite/exhibitions/vermeer/provenance.htm
◼️報道
The Art Newspaper「Revealed: Vermeer’s patron was, in fact, a woman—and she bought half the artist’s entire oeuvre」(2023年2月7日)
┗ https://www.theartnewspaper.com/2023/02/07/revealed-vermeers-patron-was-in-fact-a-womanand-she-bought-half-the-artists-entire-oeuvre
◼️解説サイト(Essential Vermeer)
Chronology of Vermeer’s Life
┗ https://www.essentialvermeer.com/chronology.html
Vermeer’s Life and Art
┗ https://www.essentialvermeer.com/vermeer’s_life_02.html
Some Vermeer-Related Documents
┗ https://www.essentialvermeer.com/documents/vermeerdocuments.html
Vermeer’s Clients and Patrons
┗ https://www.essentialvermeer.com/clients_patrons/vermeer’s_clients_and_patrons.html
The Dissius Collection
┗ https://www.essentialvermeer.com/clients_patrons/the_dissius_collection.html
The Dissius Auction
┗ https://www.essentialvermeer.com/clients_patrons/dissius_auction.html
Women in the Seventeenth-Century Netherlands
┗ https://www.essentialvermeer.com/dutch-painters/netherlands/dutch-women-06.html
Woman Holding a Balance
┗ https://www.essentialvermeer.com/catalogue/woman_holding_a_balance.html
◼️補助的に参照
Wikipedia「Maria de Knuijt」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/Maria_de_Knuijt
Wikipedia「Jacob Dissius」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/Jacob_Dissius
