真っ赤な着物をまとった女性が、体をひねるようにして、こちらを振り返っています。顔の横には開いた扇子。背後の壁にも、足もとの床にも、色とりどりのうちわが散らばっています。
クロード・モネが1876年に発表した《ラ・ジャポネーズ》です。高さは2メートルを超え、描かれた女性はほぼ等身大。モデルはモネの妻カミーユです。けれど、その髪は明るい金色をしています。もともと黒っぽい髪だったカミーユに、モネは金髪のウィッグ(かつら)をかぶせて描きました。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Museum of Fine Arts, Boston)/Public Domain
《睡蓮》や、ジヴェルニーの庭に架かる日本風の橋を知っていると、この絵は「日本好きのモネが、妻に着物を着せて描いた絵」に見えるかもしれません。それも、まったくの間違いではありません。
では、なぜ1876年だったのでしょうか。そして、着物だけでなく、金髪のウィッグや、あれほどたくさんのうちわまで必要だったのはなぜでしょうか。
その答えを探すために、《ラ・ジャポネーズ》から少し時間を巻き戻し、19世紀のパリに広がっていた「日本」から見ていきます。
19世紀パリに広がったジャポニスム
1850年代、日本は欧米の国々と条約を結び、長く閉ざしていた港を開きます。それからまもなく、浮世絵の版画や陶磁器、漆器、扇、着物といった品々が、海を越えてヨーロッパへ渡っていきました。
パリの人々がまとまった形で「日本」に出会った大きな機会が、1867年のパリ万国博覧会です。日本が初めて正式に参加した万博で、江戸幕府のほか、薩摩藩と佐賀藩も出品しました。会場には絵画や浮世絵、屏風、刀、陶磁器などが並びました。

画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain(米国)
街なかには、日本の品を扱う店も現れていました。1863年頃からリヴォリ通りで営業したドゥソワ夫妻の店は、日本から直接取り寄せた品を専門に扱う店の草分けとして知られ、画家のホイッスラーやティソ、詩人のボードレール、作家のゴンクール兄弟らが出入りしました。1872年には、美術批評家のフィリップ・ビュルティが、日本の美術や工芸への熱中ぶりを「ジャポニスム」という言葉で呼んでいます。
「美術としての日本」と「流行としての日本」
ひと口に日本ブームといっても、その中身は一つではありませんでした。大きく分けると、二つの流れがあります。
一つは、画家たちが浮世絵から受けた刺激です。影をつけずに塗り分けられた明るい色、画面の端でものを大胆に断ち切る構図、高いところから見下ろすような視点。西洋の絵画が長く守ってきた決まりごととは違う絵づくりが、新しい表現を探していた画家たちの目を引きつけました。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Chester Beatty)/Public Domain
もう一つは、買って、飾って、身につける楽しみとしての日本です。うちわや扇子、漆塗りの小箱、陶磁器、着物。こうした品々は室内を彩り、女性たちのおしゃれの小道具にもなりました。日本の扇は専門店だけでなく新しい百貨店にもあふれるようになり、1880年代の終わりには、数百万本という単位でフランスに輸入されていたといいます。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/Public Domain
とはいえ、この二つはまったく別の世界の話だったわけではありません。浮世絵の構図に目を見張った画家のなかには、日本の品を扱う店で着物やうちわを買い求め、アトリエに置いていた人もいました。モデルにそれを着せたり持たせたりして、そのまま絵に描き込んだのです。
学ぶ日本と、楽しむ日本。その二つが一枚の画面の上で鮮やかに重なり合っているのが、《ラ・ジャポネーズ》です。
モネはどう「日本」と出会ったのか
パリの人々がこれほど日本に夢中になっていたころ、当のモネはどうだったのでしょうか。
晩年のモネは、ジヴェルニーの家を浮世絵で飾って暮らしました。歌川広重、葛飾北斎、喜多川歌麿らの作品を含むそのコレクションは、200点を超えて、いまも家に残されています。

画像出典:Wikimedia Commons
これだけ聞くと、モネは若いころからずっと浮世絵に夢中だったように思えます。けれど、《ラ・ジャポネーズ》を描いたころのモネまで同じだったかというと、話はそう単純ではありません。
モネと浮世絵の出会いとして、よく語られる話があります。普仏戦争のさなかにロンドンへ渡っていたモネは、1871年、フランスへ戻る前にオランダのザーンダムに数か月滞在しました。このオランダ滞在中に、店で包装紙として使われていた浮世絵を見つけて手に入れた、というものです。欧米の美術館の解説でも紹介されることがある、印象的なエピソードです。
けれども、これがモネの「最初の一枚」だったと確かめられる記録は見つかっていません。日本の美術との最初の出会いについては、ほかにも異なる話が伝わっていて、時期も場所も一つに定まらないのです。1876年の時点で、モネがどれほどの浮世絵を手もとに持っていたのかも、はっきりしていません。
マネ、デュレ、ビュルティ――モネの周りの日本好きたち
その一方で、モネのすぐそばに、日本の美術に親しむ人たちが大勢いたことは分かっています。
先輩画家のマネは、1868年に描いた作家ゾラの肖像画の背景に、日本の力士絵と屏風を描き込んでいます。モネと親しかった批評家テオドール・デュレは、1871年の暮れ、世界をめぐる旅の途中で日本を訪れ、旅先で版画や絵入りの本を手に入れています。「ジャポニスム」の名づけ親であるビュルティも、印象派の画家たちを文章で擁護した一人です。パリの店先にも、仲間たちの部屋にも、日本の美術に触れる機会はいくらでもありました。

画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain
もう一つ、大事なことがあります。モネは生涯、一度も日本を訪れていません。モネが知っていた日本は、海を渡ってヨーロッパに届いた版画や工芸品、のちには植物を通して出会った日本でした。それは現地の日本そのものではなく、19世紀のヨーロッパが眺め、売り買いし、思い描いていた「日本」だったのです。
1876年、なぜ《ラ・ジャポネーズ》だったのか
《ラ・ジャポネーズ》が描かれた頃、モネはパリ近郊のセーヌ河畔の町アルジャントゥイユで、妻カミーユと息子ジャンと暮らしていました。この町の川やヨット、庭を描いた風景画が、当時のモネの仕事の中心です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/CC0
苦しい家計と、借金の書面に残る「日本女性を描いた一点」
暮らし向きは、楽ではありませんでした。1874年に仲間たちと開いた最初のグループ展、のちに「第1回印象派展」と呼ばれる展覧会は、話題こそ呼んだものの、商売としては成功とはいえませんでした。1870年代の初めにモネの絵をまとめて買ってくれた画商デュラン=リュエルも、不況のなかで資金繰りが苦しくなり、買い付けを減らしていきます。1875年3月には、ルノワールらとパリの競売所オテル・ドルーオで作品を売りに出しましたが、73点を合わせても売上は1万2千フランに届きませんでした。
この頃のモネは、マネに宛てて、何度も少額の借金を頼む手紙を書いています。1875年10月には、マネの弟ギュスターヴから1,000フランを借りました。そのとき残した書面には、返済には翌年に予定している自作35点の競売の売上を充てる、と記されています。その競売に出す作品の一つとして挙げられていたのが、「日本女性を描いた一点」でした。《ラ・ジャポネーズ》のことと考えられています。遅くとも1875年の秋には、この絵は売りに出す作品の一つに数えられていたことになります。
第2回印象派展と、40年後にモネが語った理由
発表の場となったのは、1876年4月、デュラン=リュエルの画廊で開かれた2回目のグループ展、いわゆる第2回印象派展です。19人が参加し、モネは20点近い作品を並べました。そのなかで、大きな人物画として注目を集めたのが《ラ・ジャポネーズ》でした。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Gallica / Bibliothèque nationale de France)/Public Domain
風景画が中心だったモネが、なぜここで、これほど大きな人物画を出したのでしょうか。
所蔵するボストン美術館の解説にもあるように、当時のフランスでは、人物を大きく描いた絵は、画家にとってもっとも手ごわい挑戦と考えられていました。モネ自身も、ずっと後の1918年、この絵に関心を寄せていた画商ポール・ローザンベールへの手紙で、当時を振り返っています。人物画をやめてしまったと一部の愛好家から責められたので、展覧会のためにこの絵を描いた、という説明です。
40年以上たってからの回想なので、これを当時の動機のすべてと受け取ることはできません。それでも少なくとも後年のモネは、この絵を「人物画も描けることを示した一枚」として記憶していたことになります。
《緑衣の女》から10年―カミーユと、着物を着た西洋の女性たち
モデルをカミーユが務めたのも、突然の思いつきではありません。1866年、カミーユを等身大で描いた《緑衣の女》は、国が主催する公式の展覧会「サロン」で好評を得て、モネの名前を広く知らせるきっかけになりました。その後も《庭の女たち》や、前年1875年の《日傘をさす女》など、モネの人物画の多くでカミーユがモデルを務めています。1918年の手紙でもモネは、この絵のモデルは《緑衣の女》と同じ最初の妻だと書いています。二つの絵は、高さがどちらも約2.3メートルと、ほとんど同じ大きさです。

画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain – CC0
西洋の女性に日本の衣装を着せて描くという発想も、モネだけのものではありませんでした。アメリカ出身の画家ホイッスラーは1864年、着物風の衣装の女性が広重の版画を眺める《紫と金の奇想曲:金屏風》を描いています。ベルギー出身でパリを拠点に活躍したアルフレッド・ステヴァンスも、1872年頃、青い着物姿の女性が鏡の前に立つ《日本風のパリジェンヌ》を描きました。ボストン美術館によれば、1870年代のフランスでは、日本の衣装をまとったヨーロッパのモデルを描いた、どこか艶っぽい絵がサロンで好まれていたといいます。

アルフレッド・ステヴァンス《日本風のパリジェンヌ》1872年、油彩・カンヴァス、La Boverie所蔵
画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain
日本趣味は、絵の主題としても流行していました。モネは暮らしのために絵を売らなければならず、後年の本人の説明によれば、人物画から遠ざかっていることを指摘されてもいました。そこへ、仲間と開く2回目の展覧会が控えていたのです。
借金の書面で競売に出すと書いていた、あの「日本女性」はどうなったのでしょうか。記録によれば、1876年4月、オテル・ドルーオの競売で2,020フランの値がつきました。前の年には、仲間たちと出した73点を合わせても1万2千フランに届かなかったのですから、ずいぶんな高値です。
ただ、これをそのまま人気の証しと受け取ってよいかは、少し注意が要ります。この取引は仕組まれたものだったのではないか、と見る研究者もいるからです。
そして《ラ・ジャポネーズ》へ|カミーユは何を演じている?
あらためて、絵の前に立ってみましょう。
画面の中央に、カミーユが立っています。まとっているのは、打掛と呼ばれる裾の長い豪華な着物です。燃えるような赤の地に、草花の模様が刺繍で重ねられています。
なかでも目を奪われるのが、腰のあたりから裾にかけて大きくあらわされた、刺繍の武者です。刀の柄に手をかけ、今にも抜こうとするこの武者は、着物から飛び出してきそうなほどの迫力で描かれています。能や歌舞伎の演目『紅葉狩』の一場面をあらわした刺繍だとする見方もあります。
カミーユは体をひねってこちらを振り返り、赤・白・青に塗り分けられた扇子を顔の横に掲げています。この三色は、フランス国旗の色です。足もとには畳のような敷物。背後の壁と床には、鶴や風景、着物姿の女性などを描いた十数本のうちわが散らばっています。
そして、金髪のウィッグ。ボストン美術館は、このウィッグが、カミーユが西洋の女性であることを強調している、と解説しています。モネは、カミーユを日本の女性らしく見せようとはしていません。ここにいるのは、日本の衣装を身につけたパリの女性です。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Museum of Fine Arts, Boston)/Public Domain
題名は《ジャポヌリ》、評は「頭が二つある中国女」
第2回印象派展に出品されたときの題名は、《ラ・ジャポネーズ(日本の女)》ではなく《ジャポヌリ》でした。日本風の品物、日本趣味の小物といった意味の言葉です。
批評家たちの反応は、さまざまでした。ボストン美術館によれば、なかにはこの女性を「顔に人間らしさのまるでない大きな人形」と呼んだものや、「ドゥミモンデーヌ(裏社交界の女)」と評したものもありました。着物の武者の顔まで数えて、赤い衣装の「中国女」には頭が二つある、と皮肉った批評家もいます。
反対に、大胆な色づかいや、日本の美術への遊び心あるほのめかしを面白がる人もいました。そもそもこの年の展覧会は、新聞『フィガロ』の批評家アルベール・ヴォルフに激しくけなされるなど、グループ全体としても厳しい目にさらされていました。
ボストン美術館は、この絵を、色彩の見事さを見せつける作品であると同時に、当時パリで流行していた日本趣味への「ウィットに富んだ」コメントだと紹介しています。大げさなほどの衣装、壁を埋めるうちわ、芝居がかったポーズ、金髪のウィッグ。そこからは、日本へのあこがれだけでなく、日本に夢中になっているパリそのものを少し離れたところから面白がる視線を読み取ることもできます。
ここまでの話を、ちょっと思い出してみてください。パリでは、画家たちが浮世絵に目を奪われ、街の人たちはうちわや着物を買っては楽しんでいました。モネのそばには、何度もモデルを務めてきたカミーユがいました。そしてモネ自身は、借金をしながら、仲間との展覧会に出す大きな絵を手がけていたのです。この一枚には、そのどれもが少しずつ入りこんでいます。
「日本が好きだったから、妻に着物を着せた」。それも答えの一部ではあります。けれど1876年の《ラ・ジャポネーズ》は、それだけでは説明しきれない事情が交わったところに生まれた一枚でした。
《ラ・ジャポネーズ》のあとも、モネの「日本」への関心は続いた
《ラ・ジャポネーズ》は、まもなくモネの手を離れました。後年のモネは、この絵にあまり愛着を示していません。1918年の画商ローザンベールへの手紙では、もう何年も見ていないこの絵を、あなたほど熱心には評価できないだろう、と書いています。同じ頃、画商たちを前に、この絵を「がらくた」と呼んだとも伝えられています。
「がらくた」とまで言われると、モネの日本への熱も、ここで冷めてしまったように思えます。実際、その後のモネが着物姿の人物画を描き続けることはありませんでした。
それでも、日本への関心は消えませんでした。今度は絵の中の小道具としてではなく、モネの暮らしそのものに、日本が入りこんでいきます。
ジヴェルニーの池と緑の太鼓橋―モネが組み立てた「日本」
1883年、モネはパリの北西、セーヌ川に近い村ジヴェルニーに移り住みます。1890年にはその家を買い取り、1893年には線路を挟んだ向かい側の土地を手に入れて、近くの小川から水を引く許可を得て池を造りました。1890年代の半ばには、その池に日本風の太鼓橋が架けられます。1899年には、ほぼ同じ位置からこの橋と池を描いた作品を12点ほど制作しました。家の壁は、集めた浮世絵で埋められていきます。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:National Gallery of Art)/CC0
この庭は、日本庭園をそのまま写したものではありません。モネ財団によれば、橋は日本の版画から着想を得ながらも、伝統的な朱色ではなく緑色に塗られました。池のまわりには、当時ヨーロッパで手に入った園芸植物と、藤や竹など東アジアゆかりの植物が組み合わされています。ジヴェルニーの庭もまた、ヨーロッパを通して出会った「日本」を、モネが自分の目と好みで組み立て直した場所でした。
「モネの絵には浮世絵の影響がある」という話を、どこかで聞いたことがあるかもしれません。実際、構図を見比べて、よく似ていると指摘される作品もあります。けれど、「この広重の一枚を見て、この絵を描いた」とはっきり言える例は、じつはそれほど多くありません。毎日のように浮世絵に囲まれて暮らしていたモネが、そこから何を受け取ったのか。それは、一枚ずつじっくり見比べながら確かめていくしかなさそうです。
もう一度《ラ・ジャポネーズ》を見ると
最初にこの絵を見たときは、「モネの日本好きを物語る、派手な絵」に見えたかもしれません。
背景を知ったあとでは、金髪のウィッグは、ただの奇抜な衣装には見えなくなります。ここにいるのは日本の女性ではなく、日本の品々を身にまとったパリの女性だという目印です。壁いっぱいのうちわも、単なる「日本らしい飾り」ではなく、当時のパリの人々が買い求め、部屋に飾り、手にしていた品々の姿に重なって見えてきます。
この絵に描かれているのは、遠い日本そのものではありません。19世紀のパリの人々が見て、買って、思い描いていた「日本」です。そしてモネ自身も、その空気のなかにいました。
これでもかと飾り立てた画面、少し芝居がかったポーズ、見る人を面白がらせる仕掛け。そこには、静かな《睡蓮》だけを見ていると気づきにくい、モネのもう一つの顔がのぞいています。少年時代を過ごしたル・アーヴルで、町の人々の特徴を誇張した似顔絵、カリカチュアを描いて店先で売っていたモネ。その姿を思い浮かべると、この絵の遊び心も、また少し違って見えてくるかもしれません。
引用・参考元はこちら
◼️大学・美術館・コレクション
ボストン美術館「La Japonaise (Camille Monet in Japanese Costume)」
┗ https://collections.mfa.org/objects/33556
ボストン美術館「Conservation in Action: La Japonaise」
┗ https://www.mfa.org/collections/conservation/conservation-in-action/la-japonaise
モルガン・ライブラリー&ミュージアム「Letter from Claude Monet, Giverny, to Paul Rosenberg, 1918 August 6」
┗ https://www.themorgan.org/literary-historical/424762
スミソニアン国立アジア美術館(フリーア美術館)「Caprice in Purple and Gold: The Golden Screen」
┗ https://asia.si.edu/object/F1904.75a/
メトロポリタン美術館「Japonisme」
┗ https://www.metmuseum.org/de/essays/japonisme
メトロポリタン美術館「The Japanese Robe」(アルフレッド・ステヴァンス)
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437756
メトロポリタン美術館「Fanmania」展 プレスリリース
┗ https://www.metmuseum.org/en/press-releases/fanmania-2025
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート「Woman with a Parasol – Madame Monet and Her Son」
┗ https://www.nga.gov/artworks/61379-woman-parasol-madame-monet-and-her-son
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート「The Japanese Footbridge」
┗ https://www.nga.gov/artworks/74796-japanese-footbridge
クロード・モネ財団「Japanese prints」
┗ https://fondation-monet.com/en/decouvrir/les-estampes-japonaises/
クロード・モネ財団「Water lily pond」
┗ https://fondation-monet.com/en/decouvrir/water-lily-pond/
グラスゴー大学 Whistler Etchings Project「Philippe Burty, 1830-1890」
┗ https://www.etchings.arts.gla.ac.uk/catalogue/biog/?nid=BurtP
フランス国立美術史研究所(INHA)AGORHA「DESOYE Louise and Emile」
┗ https://agorha.inha.fr/detail/301
◼️公的機関
フランス文化省「1876 – Deuxième exposition」
┗ https://www.culture.gouv.fr/switchToLanguage/335041/fre-FR
◼️専門メディア・記事
artnet News「Rare Letter Reveals Cash-Strapped Monet Once Put His Paintings Up as Collateral」
┗ https://news.artnet.com/art-world/monet-letter-gustave-manet-loan-auction-2754908
Apollo「Hokusai | Monet」
┗ https://www.apollo-magazine.com/hokusai-monet-woodblock-prints-minneapolis-exhibition/
Smarthistory「Édouard Manet, Émile Zola」
┗ https://smarthistory.org/edouard-manet-emile-zola
Artips「Qui dit mieux ?」
┗ https://newsletters.artips.fr/arts/Impressionnistes_Exposition_2
nippon.com「Aux racines du boom japonais : le japonisme」
┗ https://www.nippon.com/fr/column/g00284/
Wright’s Japan 1905「1867 – Japan officially participates in the Paris Exposition Universelle」
┗ https://www.wrightsjapan1905.org/?p=5533
WPI「Théodore Duret in Japan」
┗ https://wpi.art/2019/07/24/thedore-duret-in-japan/
Discover Nikkei「Monet’s La Japonaise Kimono Wednesdays at the MFA – Part 1」
┗ https://discovernikkei.org/journal/2015/7/14/la-japonaise-1/
artscape「「ボストン美術館──華麗なるジャポニスム展」記者発表会」
┗ https://artscape.jp/report/review/10098388_1735.html
インターネットミュージアム「ボストン美術館 華麗なるジャポニスム展 ─ 印象派を魅了した日本の美」
┗ https://www.museum.or.jp/report/492
◼️その他
Wikipedia「La Japonaise (painting)」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/La_Japonaise_(painting)
