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エドゥアール・マネ《アトリエ舟で制作するモネ》1874年、油彩・カンヴァス、ノイエ・ピナコテーク所蔵
画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain
Claude Monet(クロード・モネ)
Édouard Manet(エドゥアール・マネ)
日本語では一文字違い。フランス語の綴りでも、違うのは「o」と「a」だけです。
この似た名前が、実際に混乱を招いたことがあります。舞台は1865年、パリの「サロン」。国が主催する大規模な展覧会で、ここで認められることが、画家として世に出るいちばんの近道とされていました。
名前を間違えられ、褒められたモネと怒ったマネ
この年、24歳のモネはノルマンディーの海辺を描いた2点の風景画をサロンに出品し、入選します。作品は批評家からも好意的に取り上げられました。ところが会場では作品が画家名のアルファベット順に並べられていたため、モネの絵はマネの作品と同じ部屋に掛けられたといわれます。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Kimbell Art Museum)/Public Domain
当時33歳のマネは、すでに話題の画家でした。2年前には《草上の昼食》で物議をかもし、この年のサロンでも、裸婦を描いた《オランピア》が激しい非難を浴びていました。そのマネのもとに、自分が描いていない海景画へのほめ言葉が寄せられ、本人はたいへん不快がった、という逸話が伝わっています。ただ、このときマネが口にしたとされる言葉は後年の回想や伝記を通して伝わったもので、言い回しも資料によって異なります。
1832年生まれのマネと、1840年生まれのモネ。8歳違いの二人は、このとき立っている場所がまったく違いました。マネは、すでに美術界の議論の中心にいる前衛画家。モネは、サロンで認められることを強く願う若手の一人にすぎません。
名前を間違えられたこの若い画家は、まもなく、マネの代表作と同じ《草上の昼食》の名で知られる大作に挑むことになります。
同名タイトル《草上の昼食》はマネの真似なのか
モネとマネには、どちらにも《草上の昼食》と呼ばれる作品があります。マネが1863年に発表したものと、モネが1865年から翌年にかけて取り組んだものです。
二つに共通するのは、題名だけではありません。どちらも、木々に囲まれた屋外に同時代の男女を置いた大きな絵です。ただし、モネはマネの構図をそのまま写したわけではありません。同じ題名で、近い主題。だからこそ並べてみると、二人がそれぞれ何を描こうとしたのかが、はっきり見えてきます。

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マネ作『草上の昼食』に見る古典と現代の常識
1863年、マネはこの絵をサロンに応募しましたが、審査で落とされます。同じ年、皇帝ナポレオン3世の発案で、落選作を集めた「落選展」が開かれ、絵はそこで《水浴》という題で展示されました。いまの題名で呼ばれるのは、もう少し後のことです。
画面には、森の草の上に座る二人の男性と、裸の女性が描かれています。男性たちが着ているのは、当時のパリの若者の服です。
裸婦そのものは、珍しい題材ではありませんでした。神話の女神や寓意の姿として描かれていれば、サロンにはいくらでも並んでいた時代です。マネ自身も人物の配置を考えるとき、ルネサンス期の名画《田園の奏楽》や、ラファエロの下絵にもとづく版画《パリスの審判》を手がかりにしていました。

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問題になったのは、その古典の型に、同時代の人間をはめ込んだことでした。そこにいるのは神話のヴィーナスではなく、いまを生きる女性です。その女性が裸で、服を着た現代の男性たちと同じ草の上にいる。神話や寓意という支えがないぶん、観客の目には生々しく、不道徳な場面に映りました。
画面の大きさも見逃せません。縦約2メートル、横2.6メートルを超えるこの絵は、当時なら歴史や神話、宗教といった「格の高い」主題に使われる大きさでした。
マネが投げかけたのは、裸婦の是非だけではありません。歴史画のような大きな画面に、現代の生活を描いてよいのか。それまでの絵画が守ってきた約束事そのものを、揺さぶる作品でした。
モネ作『草上の昼食』で挑んだ新しい人物表現
それから約2年後の1865年春、モネは森でくつろぐ現代の男女を描く大作に取りかかります。目標は翌1866年のサロン。完成すれば縦4メートル、横6メートルを超える、壁画のような大きさになるはずでした。
モネはパリ南東のフォンテーヌブローの森で習作を重ね、全体の下絵をつくりました。この下絵は、いまモスクワのプーシキン美術館にあります。
オルセー美術館は、この作品をマネの絵へのオマージュであると同時に、挑戦でもあったと紹介しています。モネがマネの作品を意識していたことは確かですが、マネの挑発をくり返そうとはしませんでした。モネの画面に、裸の人物はいません。登場する男女は、みな当時の流行の服を身につけています。
かわりにモネが力を注いだのは、光でした。木の葉のすき間からこぼれる日差しが、女性たちの白いドレスにも、男性の黒っぽい上着にも、草の上に広げた白い布にも、地面にも、まだらに落ちています。人物だけを特別に照らし出すのではなく、人も服も木々も、同じ光の中に置こうとしました。
しかし作品は完成に至らず、モネはサロンの開幕を前に出品をあきらめます。後年モネが語ったところでは、その後、家賃が払えなくなり、この絵を家主に担保として預けたといいます。地下室にしまわれていた絵を取り戻したのは1884年。カンヴァスにはカビが生えていました。モネは傷んだ部分を切り離して三つの断片を残し、そのうち二つが現在オルセー美術館にあります。
それでも、この大作を単なる失敗作と片づけることはできません。等身大に近い人物を、戸外の自然光の中に描く。この課題は、同じ1866年に取りかかった《庭の女たち》へと引き継がれていきます。
ライバル?仲間?気付けば同じ輪の中に
《草上の昼食》で、モネは作品を通してマネと向き合いました。やがて二人は、実際に顔を合わせる間柄になります。いつ、どのように知り合ったのかは、はっきりしていません。ただ、1860年代の終わりには、二人とも同じ仲間の輪の中にいました。
その舞台が、パリ北西部のバティニョール地区です。マネや、のちに印象派と呼ばれる画家たちの何人かが暮らしたこの界隈には、カフェ・ゲルボワという店があり、マネを囲んで画家や作家たちが集まっては議論を交わしていました。モネも後年、そこでの意見のぶつかり合いほど興味深いものはなかった、という趣旨のことを語っています。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Art Project)/Public Domain
この仲間たちの姿を伝える一枚の絵があります。アンリ・ファンタン=ラトゥールが描き、1870年のサロンに出品した《バティニョールのアトリエ》です。画面の中央でイーゼルに向かい、筆をとっているのがマネ。その周りを、ルノワール、作家のゾラ、バジールら、マネと親しい人々が取り囲み、右端にはモネの姿もあります。
1865年にはマネと名前を取り違えられる新人だったモネが、それから5年ほどで、マネを中心とする仲間の一人として同じ画面に描かれるまでになっていました。
モネやルノワールの姿もあるこの絵を見ると、「ここから印象派が始まったのかな」と思うかもしれません。でも、1870年の時点では、まだ「印象派」という呼び名もなく、自分たちで展覧会を開いていたわけでもありません。そこにあったのは、新しい絵を探す若い画家や作家たちの、ゆるやかな仲間の輪でした。その真ん中にいたマネが、のちにどんな道を選ぶのか。それは、もう少し先の話です。
この年の夏に普仏戦争が始まり、仲間の一人だったバジールは11月に戦死します。仲間たちはいったん散り散りになり、モネもロンドンへ渡りました。戦争が終わった1871年の暮れ、モネはパリ近郊のセーヌ河畔の町、アルジャントゥイユに家族と住まいを定めます。
マネ、モネを描く|《アトリエ舟で制作するモネ》
アルジャントゥイユは、パリから鉄道ですぐの郊外の町でした。セーヌ川にはヨットが浮かび、休日には行楽客でにぎわう一方、鉄道橋や工場の煙突も見える土地です。モネはここで、川や橋、ヨット、そして庭で過ごす妻カミーユと息子ジャンの姿を、くり返し描きました。
1874年の夏、マネはセーヌ川をはさんだ対岸のジュヌヴィリエにある、一家の家で過ごしていました。二人はこの夏、たびたび顔を合わせています。
約10年前には、若いモネのほうがマネの作品を意識していました。この夏は逆に、マネがモネの暮らしと制作を描くことになります。
アルジャントゥイユで親交を深めたモネとマネ

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アルジャントゥイユのモネは、少し変わった道具を使っていました。小舟の上に板張りの小屋を設け、画材を積んだまま川へ出られるようにした「アトリエ舟」です。岸からは得られない、川の上の低い視点から、水面と空を間近に見て描くことができました。もっとも、この時期のモネは岸辺や庭でも制作しており、アトリエ舟だけで描いていたわけではありません。
1874年の夏、マネはこの舟の上で絵を描くモネの姿をカンヴァスに収めました。現在ミュンヘンのノイエ・ピナコテークが所蔵する《アトリエ舟で制作するモネ》です。カンヴァスに向かうモネのそばには女性の姿もあり、妻のカミーユとされています。モネが実際にアトリエ舟で制作していたことを伝える、同時代の貴重な証言でもあります。

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同じ夏、マネはモネの家の庭で《アルジャントゥイユの庭のモネ一家》も描いています。所蔵するメトロポリタン美術館によれば、マネがこの絵を描いているあいだ、モネのほうもイーゼルに向かうマネの姿を描いたといいます(その絵の所在は分かっていません)。そこへルノワールもやって来て、マネのすぐ隣で同じようにカミーユとジャンの姿を描きました。

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1865年、マネの名前と取り違えられ、その直後にマネの作品を意識しながら《草上の昼食》に挑んだ若い画家は、約10年後、マネの絵の主人公になっていました。
マネ自身の絵にも変化が見られます。この頃マネは、セーヌでボート遊びを楽しむ男女を描いた《舟遊び》など、川辺の情景を手がけました。黒や深い色を効かせた作品が目立った1860年代に比べると、色調はぐっと明るくなり、女性のドレスの裾などには素早い筆の跡が残っています。所蔵するメトロポリタン美術館も、年下の印象派の仲間たちの軽やかな筆づかいと明るい色を取り入れた作品だと解説しています。

画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/Public Domain
ただし、絵の組み立て方はマネならではのものです。舟と帆は画面の端で大胆に断ち切られ、白い服の男性と女性の背後には、アクアマリン色の水面が一面に広がっています。メトロポリタン美術館は、色の面を大きく使う構成や強い斜めの線に、日本の浮世絵への傾倒を見ています。明るい色や軽い筆づかいを取り入れながらも、マネは自分ならではの絵の組み立て方を手放してはいませんでした。この夏は、二人の制作上の距離がもっとも近づいた時期だったといえます。
印象派展に進んだモネ|サロンに残ったマネ
あの夏より少し前の1874年4月15日、パリのキャピュシーヌ大通りにある写真家ナダールの元アトリエで、とある展覧会が始まりました。モネ、ルノワール、ピサロ、ドガ、ベルト・モリゾら約30人が参加した、審査も賞もない、画家たち自身の手による展覧会です。のちに「第1回印象派展」と呼ばれるこの展覧会に、モネは《印象・日の出》などを出品しました。この題名をからかった新聞記事をきっかけに、「印象派」という呼び名が広まっていきます。
けれども、そこにマネの名前はありませんでした。マネは参加の誘いを断り、同じ年の公式のサロンに4点を応募しています。公式サロンのカタログに掲載されたのは、油彩の《鉄道》と水彩の《ポリシネル》の2点でした。その後もマネは、グループの展覧会に一度も加わっていません。あの夏に描いた《舟遊び》も、のちに1879年のサロンへ出品しています。交流が深まり、描き方が近づいても、マネが選んだのは公式のサロンで認められる道でした。

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ここまで読んで、「でも、マネも印象派の画家じゃないの?」と思った方もいるかもしれません。結論から言えば、マネは印象派と深く結びつきながら、その一員にはならなかった画家です。
たしかにマネは、モネやルノワール、ドガ、ベルト・モリゾらと親しく交流し、1870年代には戸外で制作したり、明るい色彩を取り入れたりするようになります。若い画家たちの輪の中心にいて、彼らに大きな影響を与えたことから、「印象派の父」と呼ばれることもあります。

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身近な人のなかには、実際に印象派展へ加わった画家もいました。マネと特に親しかったベルト・モリゾは、1874年の第1回印象派展に出品し、同じ年の12月にはマネの弟ウジェーヌと結婚しています。
それでもマネ自身は、印象派展に一度も加わりませんでした。
一方のモネは1874年の展覧会に参加し、その後「印象派」を代表する画家の一人になっていきます。
モネとマネ|一文字違いの二人が進んだそれぞれの道
似ていたのは、名前だけではありません。同時代の人々の暮らしを、正面から大きな主題にすること。明るい戸外の光への関心。二人の仕事には、確かに重なり合う部分がありました。
それでも、1870年代以降、作品を世に問う場所として二人が主に選んだ道は、別々のものになっていきました。互いに近づきながらも、二人はそれぞれ自分の道で、新しい絵画を切り開いていきました。
こうして二人の重なりと違いをたどってみると、一文字違いの「モネ」と「マネ」が、以前よりずっと見分けやすく、そして身近に感じられるようになりました。パリのオルセー美術館には、マネの《草上の昼食》と、モネの《草上の昼食》の断片が、どちらも収められています。いつかその前に立つことがあったら、名前を取り違えられた若い画家が、先輩の大作を意識しながら筆をとった姿を思い浮かべてみてください。一枚の絵の向こうに画家どうしのやりとりが見えてくると、美術館で過ごす時間はぐっと豊かになるはずです。
引用・参考元はこちら
◼️大学・美術館・コレクション
オルセー美術館「Le Déjeuner sur l’herbe(クロード・モネ)」
┗ https://www.musee-orsay.fr/it/node/85245
オルセー美術館「Olympia」
┗ https://www.musee-orsay.fr/en/artworks/olympia-712
オルセー美術館「Un atelier aux Batignolles」
┗ https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/210
オルセー美術館(Google Arts & Culture)「Luncheon on the Grass」
┗ https://artsandculture.google.com/asset/luncheon-on-the-grass/twELHYoc3ID_VA?hl=en
メトロポリタン美術館「Édouard Manet (1832–1883)」(2004年10月)
┗ https://www.metmuseum.org/ja/essays/edouard-manet-1832-1883
メトロポリタン美術館「The Monet Family in Their Garden at Argenteuil」
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436965
メトロポリタン美術館「Boating」
┗ https://www.metmuseum.org/art/collection/search/436947
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート「1874: The Birth of Impressionism」(2024年9月4日)
┗ https://www.nga.gov/stories/articles/1874-birth-impressionism
ナショナル・ギャラリー・オブ・アート「The Railway」
┗ https://nga.gov/collection/art-object-page.43624.html
ロンドン・ナショナル・ギャラリー「Edouard Manet」
┗ https://nationalgallery.org.uk/artists/edouard-manet
ロンドン・ナショナル・ギャラリー「Berthe Morisot」
┗ https://nationalgallery.org.uk/artists/berthe-morisot
キンベル美術館(Google Arts & Culture)「La Pointe de la Hève at Low Tide」
┗ https://artsandculture.google.com/asset/la-pointe-de-la-h%C3%A8ve-at-low-tide/1wF1kz5yJrRk5Q
ノートン・サイモン美術館「Mouth of the Seine at Honfleur」
┗ https://www.nortonsimon.org/art/detail/F.1973.33.2.P
バイエルン州立絵画コレクション(ピナコテーク)「Die Barke」
┗ https://www.sammlung.pinakothek.de/en/artwork/o5xr0jMG7X/edouard-manet/die-barke
デイトン美術館「Berthe Morisot」
┗ https://daytonart.emuseum.com/people/300/berthe-morisot
シアトル美術館「Object of the Week: Fishing Boats at Étretat」
┗ https://samblog.seattleartmuseum.org/?p=7910
インディアナ大学(講義資料)「The Café Guerbois」
┗ https://paris19.sitehost.iu.edu/Day2_Impressionism/Brown_Cafe_Guerbois.html
◼️新聞・雑誌
The New York Review of Books「Manet Paints Monet」(2015年4月14日)
┗ https://www.nybooks.com/online/2015/04/14/manet-paints-monet/
◼️その他(百科事典)
Wikipedia「A Studio at Les Batignolles」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/A_Studio_at_Les_Batignolles
Wikipedia「Claude Monet Painting in his Studio」
┗ https://en.wikipedia.org/wiki/Claude_Monet_Painting_in_his_Studio
