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エミール・ヴェルハーレンの朗読

テオ・ファン・レイセルベルヘの生涯|Les XXと点描から、自由な色彩へ

細かな色の点を重ね、光を画面の上に組み立てていく点描。その技法を19世紀末のベルギーでいち早く実践した画家の一人が、テオ・ファン・レイセルベルヘです。

しかし、彼の生涯を「点描で描いた画家」という言葉だけで説明することはできません。若い頃にはスペインやモロッコへ旅し、ベルギーとは異なる光と色を見つめました。ブリュッセルでは前衛芸術家団体Les XX(レ・ヴァン)の創設に加わり、国外の新しい美術に触れる場をつくる側にも立ちます。そこで新印象派と出会うと、その方法を風景だけでなく肖像画や群像画へ応用し、やがて確立した点描そのものからも少しずつ離れていきました。

新しい表現を学び、自分の主題へ取り込み、そして必要に応じて変えていく。レイセルベルヘの作品を時代順に見ていくと、ひとつの技法に固定されない画家の姿が浮かび上がってきます。

テオ・ファン・レイセルベルヘとはどんな人物か

テオ・ファン・レイセルベルへ
テオ・ファン・レイセルベルヘ《自画像》1916年
Wikimedia Commons(Sotheby’s)/Public Domain

テオ・ファン・レイセルベルヘ(別表記:テオ・ヴァン・レイセルベルヘ、リセルベルグ、ライセルベルヘ/Théo van Rysselberghe、本名 Théophile van Rysselberghe)は、1862年11月23日にベルギーのヘントで生まれた画家です。新印象派、分割主義、点描主義を語るうえで重要なベルギー人画家の一人であり、風景画だけでなく、肖像画や文化人を集めた群像画にも重要な作品を残しました。

1883年には、ブリュッセルで結成された前衛芸術家団体Les XX(レ・ヴァン、二十人会)の創設に参加します。パリを中心に広がっていた新しい芸術をベルギーへ紹介する環境のなかで、ジョルジュ・スーラやポール・シニャックらの新印象派と接触し、1880年代後半から分割主義的な色彩と点状の筆触を本格的に作品へ取り入れていきました。

ただし、レイセルベルヘは生涯を通して同じ点描を続けたわけではありません。1890年代末から筆触は次第に長く、大きくなり、晩年には南フランスの光を、より自由な色彩と筆触で描いています。1926年12月13日、南フランスのル・ラヴァンドゥー市サン=クレールで64年の生涯を閉じました。

レイセルベルヘの生涯を理解する3つのポイント

1 旅を通じて育った光と色への関心
点描を知る以前からスペインやモロッコを訪れ、北ヨーロッパとは異なる光や色彩を描いていました。

2 Les XXを通じた前衛芸術との国際交流
新しい美術を見るだけでなく、国外の芸術家をベルギーへ迎える展覧会活動にも加わりました。

3 点描を自分の表現へ変え、さらにその先へ進んだこと
新印象派の方法を風景だけでなく肖像画や群像画へ応用し、画風が確立した後も表現を変化させ続けました。

レイセルベルヘの生涯・簡易年表

  • 1862年:ベルギー・ヘントに生まれる
  • 1878~1880年:ヘント王立美術アカデミー夜間課程で学ぶ
  • 1881年:公に作品を出品し始める
  • 1882年:旅行奨学金を得てスペイン、モロッコへ
  • 1883年:Les XXの創設に参加
  • 1886年:パリで新印象派を知る
  • 1887~1888年:分割主義・点描を実作へ取り入れ、再びモロッコを訪れる
  • 1889年:マリー・モノムと結婚
  • 1892年:シニャックの船《オランピア》号で南フランス方面へ航海
  • 1893年:Les XX最後の年次展
  • 1894年~:La Libre Esthétique(ラ・リーブル・エステティーク)に関与
  • 1897~1898年:パリへ生活・活動の拠点を移す
  • 1903年:《エミール・ヴェルハーレンの朗読》完成
  • 1910~1911年:サン=クレールへ段階的に生活の拠点を移す
  • 1926年:ル・ラヴァンドゥーで死去

この年表は、これからたどるレイセルベルヘの人生の大まかな地図です。旅、展覧会活動、人との交流、そして画風の変化がどのようにつながっていったのかを、ここから順に見ていきましょう。

ヘントに生まれ、画家としての基礎を築く

レイセルベルヘは1862年、ベルギー北西部の都市ヘントに生まれました。家族の経済状況や家庭内で使われていた言語については、現在確認できる資料だけでは十分に確定できません。そのため、ここでは記録から具体的にたどることのできる美術教育を中心に、画家としての出発点を見ていきます。

ヘントで始まった美術教育

1878年から1880年にかけて、レイセルベルヘはヘント王立美術アカデミーの夜間課程で学びました。当時の記録からは、古代彫刻、人体解剖、人体素描、構造や透視法といった科目を履修していたことが確認できます。

後に鮮やかな色彩や細かな筆触で知られるようになるレイセルベルヘですが、その出発点にあったのは、人体や空間をどのように捉え、それを画面の上に組み立てるかという基礎的な訓練でした。こうした学習を、そのまま後年の作品へ直結させることはできませんが、人物を描くための素描力や画面を構成するための知識を早い時期から学んでいたことは、後年の肖像画や大規模な群像画を考えるうえでも重要です。

ブリュッセルでポルタールに学ぶ

その後、レイセルベルヘはブリュッセル王立美術アカデミーへ進み、ジャン=フランソワ・ポルタール(Jean-François Portaels)のもとで学びました。ポルタールは北アフリカやオリエントを題材とする作品でも知られた画家であり、レイセルベルヘもこの時期に、そうした主題を扱う美術に身近に接する環境にいました。

もちろん、後にレイセルベルヘがモロッコへ向かった理由を、ポルタールの影響だけで説明することはできません。ただ、北アフリカが遠い異国としてではなく、実際に絵画の主題となり得る場所として示される環境で学んでいたことは、その後の旅との接点のひとつとして見ることができます。

なお、レイセルベルヘがブリュッセルのアカデミーに正確に何年から何年まで在籍していたのか、また正式な卒業資格を得たのかについては、現在確認できる資料だけでは確定できません。教育歴については、後世の経歴から不足部分を補うのではなく、確認できる範囲に留めておく必要があります。

1881年、画家として最初の一歩を踏み出す

1881年、レイセルベルヘは公に作品を出品し始めました。具体的な展覧会名や、この年に出品したすべての作品については追加確認の余地がありますが、20歳前後にはすでに作品を発表する画家として活動を始めていたことが分かります。

この時期には、後年のレイセルベルヘを特徴づける点描はまだ登場していません。むしろ注目したいのは、ヘントやブリュッセルで人物や空間を描くための基礎を身につけた若い画家が、ほどなくベルギーの外へ活動の範囲を広げていったことです。その視線は、翌1882年にはスペインへ、そしてさらに北アフリカのモロッコへと向かっていきます。

スペインとモロッコへ|旅の光が色彩への関心を深める

1882年、レイセルベルヘは旅行奨学金を得てベルギーを離れ、スペインへ向かった後、さらにモロッコへ渡りました。旅にはスペイン人画家ダリオ・デ・レゴヨス(Darío de Regoyos)ら同時代の芸術家も関わっており、レイセルベルヘがこの時期に描いた《ギタリスト、ダリオ・デ・レゴヨスの肖像》からも、若い画家たちの交流の一端を知ることができます。

ベルギーを離れたレイセルベルヘが目にしたのは、気候も街並みも、人々の服装も異なる土地でした。モロッコでは市場や街路、人々の姿などを題材とし、それまでの作品とは異なる強い光や鮮やかな色彩が画面へ入ってきます。後に新印象派の方法を取り入れることになるレイセルベルヘですが、光や色への関心は、それ以前のこうした旅のなかですでに作品へ現れ始めていました。

モロッコで見つめた、ベルギーとは異なる光と色

この時期を代表する作品のひとつが、1882年の《タンジールの屠畜場》(Boucherie à Tanger)です。

テオ・ファン・レイセルベルヘ《タンジールの屠畜場》
テオ・ファン・レイセルベルヘ《タンジールの屠畜場》1882年、油彩・カンヴァス、ゲント美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(Dominique Provost/MSK Gent・Art in Flanders)/CC0 1.0
点描を知る以前のレイセルベルヘを示す核作品。モロッコ旅行と、初期の光・色彩への関心を伝える位置に掲載。

題名の通りタンジールの屠畜場を描いた作品ですが、後年のレイセルベルヘを知る読者にとって重要なのは、この段階ではまだ細かな点描が使われていないことです。筆触や色の置き方も、1890年代に制作される新印象派的な作品とは明確に異なっています。

つまり、レイセルベルヘは点描を学んだことで、初めて光や色彩へ関心を持ったわけではありません。新印象派と出会う以前から、旅先で目にした異なる光や色を観察し、それをどのように絵画へ取り込むかを試していました。後年の点描を考えるときにも、1880年代前半から続いていたこの関心を切り離すことはできません。

1884年には《アラブのファンタジア》(Fantasia arabe)を制作しています。

アラブのファンタジア
テオ・ファン・レイセルベルヘ《アラブのファンタジア》1884年、油彩・カンヴァス、ベルギー王立美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(Rvalette)/CC BY-SA 4.0

画面には「Tanger 84」と記されており、この時期にもモロッコを題材とする大作に取り組んでいたことが確認できます。大画面に人馬を配した作品ですが、ここでも後年のような均一な点状の筆触はまだ見られません。

その後、レイセルベルヘはモロッコを再訪し、1887~1888年頃には《メクネスの広場》(Place publique à Mequinez)などの素描を残しました。

メクネスの広場
テオ・ファン・レイセルベルヘ《メクネスの広場》1887–1888年、コンテ鉛筆・簀目紙、ベルギー王立美術館所蔵
画像出典:ベルギー王立美術館(J. Geleyns/Art Photography)

最初の旅から数年が経ったこの頃には、彼を取り巻く美術環境も大きく変わっています。Les XXの活動を通じて国外の前衛芸術に触れ、パリでは新印象派を知り、色彩を分割して画面へ置く新しい方法を試し始めていました。同じモロッコを訪れていても、1882年と1887~1888年では、画家自身が持ち込んだ美術上の経験がすでに異なっていたのです。

Les XXを立ち上げ、新しい美術と出会う場所をつくる

1883年、レイセルベルヘはブリュッセルで新しい芸術家団体の結成に加わりました。Les XX(レ・ヴァン)です。日本語では「二十人会」「20人展」などと表記されることもありますが、ここでは固有名としてレ・ヴァンと呼びます。

団体の中心的な運営者の一人となったのが、オクターヴ・モース(Octave Maus)でした。レイセルベルヘも創設メンバーの一人として参加し、翌1884年から始まった一般公開の年次展を通して自作を発表していきます。ただし、Les XXの重要性は、ベルギーの若い芸術家たちが集まり、自分たちの作品を展示したことだけにあるわけではありません。彼らは国外の芸術家を積極的に招き、当時のブリュッセルではまだ触れる機会の少なかった新しい表現を紹介する場をつくりました。

国外の前衛芸術家を迎えた新しい展覧会

19世紀後半のヨーロッパでは、既存の美術制度や公募展だけでは、同時代に生まれつつあった新しい表現が十分に紹介されないこともありました。Les XXはそうした状況のなかで、すでに評価の定まった作家だけではなく、国外で新しい表現を試みている芸術家たちも展覧会へ招いていきます。

フランスからも多くの芸術家が参加し、活動は絵画だけに限定されませんでした。版画や装飾芸術、音楽など異なる分野の表現にも開かれたことで、Les XXはブリュッセルにいながら国外の新しい芸術へ接することのできる場所となっていきます。

レイセルベルヘにとっても、Les XXは単なる所属団体ではありませんでした。自分たちで展覧会を運営し、その場へ国外の芸術家を招くことで、これまで身近ではなかった作品を実際に見る機会が生まれます。そして、そこで得た新しい表現との接触が、やがて自分自身の制作にもつながっていきました。

「新しい美術を見る場」を自分たちでつくった

Les XXの活動をレイセルベルヘの生涯のなかで考えると、大切なのは「新しい美術を見る側」であると同時に、「それを見ることのできる場をつくる側」にもいたことです。国外の芸術家を招く展覧会を自分たちで組織したことで、ブリュッセルとパリをはじめとする国外の前衛芸術との距離は、それまでよりも近いものになっていきました。

やがてLes XXには、フランスで新しい色彩表現を試みていた画家たちも参加します。そこで作品を見るだけでなく、作家同士の交流も生まれ、その経験がレイセルベルヘ自身の制作へ反映されていきます。Les XXでの活動と、その後の画風の変化は別々の出来事ではなく、展覧会を通じて新しい美術に接したことが、次の制作へつながっていく連続した流れとして見ることができます。

1886年頃からレイセルベルヘが接触していく新印象派も、まさにこうした国際的な交流のなかで身近な存在になっていきました。Les XXという場を自分たちでつくったことが、やがて彼自身の絵画を大きく変える出会いへとつながっていきます。

コラム

Les XX、本当は「20人」いなかった?

Les XX(レ・ヴァン)は、フランス語で「20人」を意味する名前です。ところが、実際の構成員を調べてみると、結成から活動終了まで常に20人が所属していたわけではありません。

たとえば、フランス国立図書館(BnF)の団体典拠では、レイセルベルヘを含む14名が創設者として挙げられています。一方、1888年に開催された第5回展の同時代カタログを見ると、Les XXの現役会員として掲載されているのは16名です。そのほかに、ポール・シニャックやアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーなどの招待作家が別枠で参加していました。

では、なぜ「20人」という名前なのでしょうか。ここで注意したいのは、準備段階の参加者、創設に関わった人物、各年の現役会員、そして展覧会へ招かれた作家を同じものとして数えないことです。どの段階の、どの立場の人物を数えるかによって人数は変わります。そのため、「20人の画家が集まり、その20人がずっと活動した団体」と理解すると、実態とは少しずれてしまいます。

Les XXを知るうえで重要なのは、名称どおりの人数だったかどうかよりも、ベルギーの前衛芸術家たちが自分たちで展覧会の場をつくり、国外から新しい芸術家を招いたことです。レイセルベルヘがスーラやシニャックらの新印象派へ接近していく背景にも、こうした国際的な交流の場がありました。

スーラとシニャックに出会い、点描を自分の表現へ

1886年、レイセルベルヘはパリで新印象派の動きに接します。その中心にいた画家の一人が、ジョルジュ・スーラでした。当時、スーラたちは、絵具をパレット上で混ぜ合わせて色をつくるだけではなく、異なる色を小さな筆触として画面に並べ、見る側の目の中で色彩の効果が生まれるような方法を試みていました。

レイセルベルヘがスーラの作品を見て何を感じたのか、その心理を直接伝える一次資料が十分に確認されているわけではありません。ただ、その後の作品を見ると、1880年代後半から色の扱いや筆触が大きく変わっていったことは確かめられます。新印象派との出会いは、レイセルベルヘの制作に新しい方法が加わっていく重要な時期となりました。

Les XXを通じて、新印象派との交流が深まる

新印象派との接点は、パリだけで生まれたものではありません。1887年のLes XX展には、スーラやカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro)ら、フランスの新印象派につながる画家たちが招かれました。ポール・シニャックとの交流も深まり、レイセルベルヘ自身も1887~1888年頃から、分割された色と点状の筆触を本格的に作品へ取り入れていきます。

ただし、この動きを「レイセルベルヘが一人でベルギーへ点描を持ち込んだ」と説明するのは適切ではありません。Les XXを運営したオクターヴ・モースをはじめ、複数の作家や批評家、展覧会関係者が国外の新しい芸術を紹介し、フランスとベルギーの前衛美術が行き来する環境をつくっていました。

レイセルベルヘは、その交流のなかで新印象派を受け取っただけでなく、Les XXの一員として新しい美術がベルギーへ入ってくる場を支えた画家でもあります。新しい表現を見る側と、それを紹介する環境をつくる側の両方にいたことが、この時期のレイセルベルヘを考えるうえで重要です。

新しい技法を知った後、再びモロッコへ

新印象派の方法を取り入れ始めた1887~1888年頃、レイセルベルヘは再びモロッコを訪れています。《メクネスの広場》など、この時期に残された作品を見ると、1882年の最初の旅と同じ北アフリカを訪れながら、制作を取り巻く状況はすでに大きく変わっていたことが分かります。

最初の旅でレイセルベルヘが向き合ったのは、ベルギーとは異なる強い光や街の色、人々の姿でした。そこへ二度目の旅では、色をどのように分けて置き、画面の上でどのように作用させるかという、新印象派から得た考え方が加わります。

もちろん、モロッコへの旅そのものが点描を生み出したわけではありません。1882年の旅から続いていた光と色への関心と、Les XXを通して知った新印象派の方法が、1880年代後半になって同じ制作のなかで重なり始めた、と捉える方が実際の流れに近いでしょう。

「点描」と「分割主義」は同じもの?

レイセルベルヘを紹介するとき、「点描」と「分割主義」という二つの言葉がよく使われます。似た意味で扱われることもありますが、厳密には同じものを指しているわけではありません。

分割主義(Divisionism)は、色をあらかじめ混ぜ切ってしまうのではなく、異なる色をそれぞれ別の筆触として置き、その組み合わせによって色彩効果をつくる考え方です。一方、点描主義(Pointillism)は、その方法を実践するときに、小さな点状の筆触を用いる具体的な描き方を指します。

言い換えれば、分割主義は「色をどのように扱うか」という原理に関わり、点描主義は「その色をどのような筆触で画面に置くか」という方法に関わる言葉です。この違いを押さえておくと、レイセルベルヘのその後の画風の変化も理解しやすくなります。

彼の作品では、細かな点状の筆触が次第に大きくなり、やがて長い筆触やモザイク状の色面へと変わっていきます。それでも、色を分けて置き、隣り合う色同士の関係によって画面を組み立てる考え方まで一度に失われたわけではありません。レイセルベルヘにとって点描は、固定されたひとつの描き方というよりも、そこから自分の表現を広げていくための出発点のひとつになっていきました。

スーラを真似るのではなく、自分の絵へ

レイセルベルヘが新印象派の方法を取り入れていくうえで特徴的だったのは、点描を風景画だけに用いなかったことです。人物の顔や衣服、室内空間にも細かな色の筆触を置き、肖像画にも分割主義の考え方を積極的に応用していきました。ただし、均質な点を機械的に並べるのではなく、描く対象や場所に応じて筆触の大きさや方向を変え、人物の表情や身体の量感、周囲の空間まで失わないように画面を組み立てています。

1890年の《サンブル渓谷》(La Vallée de la Sambre)は、レイセルベルヘが新印象派の方法を自分の絵画へ取り込んでいった時期を示す重要な作品です。ゲント美術館は、この作品を彼による最初期の本格的な点描風景のひとつとして位置づけており、翌1891年にはLes XX展にも出品されました。1882年の《タンジールの屠畜場》と見比べると、色の置き方や画面の組み立て方が大きく変化していることが分かります。

もっとも、この変化がある時期に突然現れたわけではありません。スペインやモロッコへの旅で見てきた光と色、Les XXを通して接した国外の新しい美術、そしてスーラやシニャックら新印象派の画家との交流が重なりながら、レイセルベルヘは少しずつ新しい方法を自分の制作へ取り込んでいきました。そうした経験を経て、1890年前後には、分割された色と点状の筆触を用いるレイセルベルヘ独自の表現が、次第に形を整えていったのです。

サンブル渓谷
テオ・ファン・レイセルベルヘ《サンブル渓谷》1890年、油彩・カンヴァス、ゲント美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(Sotheby’s London, 22 June 2011, lot 7)/Public Domain

結婚と肖像画、シニャックとの航海|人とのつながりが作品へ

マリー・モノムとの結婚、文化人の輪へ

1889年、レイセルベルヘはマリー・モノム(マリア・モノム/Maria / Marie Monnom)と結婚し、夫婦には娘エリザベート(Élisabeth van Rysselberghe)が生まれます。この結婚は私生活上の出来事にとどまらず、レイセルベルヘの交友関係にも新しい広がりをもたらしました。モノム家を通じて出版や文学に関わる人々との接点が増え、画家だけではなく、作家や詩人、批評家、出版人など、異なる分野の文化人たちが彼の周囲に集まるようになります。

こうした人間関係は、後の制作とも深く結びついていきました。レイセルベルヘは身近な人々や文化人を数多く肖像画に描き、やがて一人の人物を描く肖像から、複数の人物をひとつの画面に配置する大規模な群像画へと表現を広げていきます。後に《エミール・ヴェルハーレンの朗読》へとつながっていく人物表現の背景には、こうした日常的な交流の積み重ねがありました。

点描で風景だけでなく「人」を描く

点描というと、陽光に満ちた風景や水辺を思い浮かべるかもしれませんが、レイセルベルヘの画業では肖像画も重要な位置を占めています。新印象派の方法を取り入れた後も、彼は人物を描くことをやめるどころか、分割された色彩を人物表現へ積極的に応用していきました。

シャルル・モース夫人の肖像
テオ・ファン・レイセルベルヘ《シャルル・モース夫人の肖像》1890年、油彩・カンヴァス、ベルギー王立美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain

1890年の《シャルル・モース夫人の肖像》(Portrait de madame Charles Maus)は、その一例です。人物の顔や衣服、背景は細かな色の筆触によって組み立てられていますが、それによって人物そのものの存在感が失われているわけではありません。色彩を細かく分けながらも、表情や衣服の形、身体の量感、背景との距離を保ち、ひとつの肖像画としてまとめています。

ここに、レイセルベルヘが新印象派の方法を自分の表現へ変えていった特徴のひとつがあります。色彩を分割するという新しい方法と、人間の姿や個性を描くことを切り離すのではなく、両者を同じ画面のなかで成立させようとしたのです。こうして点描は、彼にとって風景の光を表すためだけの技法ではなく、人間を描くための方法にもなっていきました。

スーラの死後も続いた新印象派との関わり

1891年、ジョルジュ・スーラが31歳で亡くなります。レイセルベルヘは翌1892年、スーラをめぐる追悼活動にも関わりましたが、スーラの死を境に、それまでの新印象派的な表現を離れて独自路線へ転じたと単純に区切ることはできません。

その後もレイセルベルヘは分割主義的な色彩を使った制作を続け、シニャックをはじめとする新印象派の画家たちとの交流も継続しています。スーラという重要な存在を失った後も、新印象派そのものが終わったわけではなく、その方法は複数の画家によって受け継がれ、それぞれの主題や筆触に応じて異なる方向へ展開していきました。

レイセルベルヘもその一人でした。スーラから学んだ方法をそのまま維持するのではなく、肖像画や人物表現へ応用しながら、自分の制作のなかで少しずつ変化させていきます。そして1892年には、交流を続けていたシニャックとともに南フランスへ向かうことになります。

コラム

点描で人の性格まで描ける?

小さな色の点を規則的に並べていく点描。風景なら、空や水面、草木を細かな色へ分けて描く方法を想像しやすいかもしれません。では、その同じ方法で「人」を描いたとき、表情やその人らしさまで表現できるのでしょうか。

もちろん、肖像画を見ただけでモデルの本当の性格がわかるわけではありません。それでもレイセルベルヘの肖像画を見ると、人物を単なる色の点の集まりにはしていないことがわかります。

新印象派の点描を画面全体へ機械的に当てはめれば、人物の顔も衣服も背景も、同じような点状の筆触で処理されかねません。ところがレイセルベルヘは、描く場所によって筆触の細かさや大きさを変えました。顔ではより繊細な筆触を用い、背景ではより大胆な筆触を使うなど、色彩分割の原理と人物描写を両立させようとしています。調査報告でも、レイセルベルヘの特色は、スーラの点描を単純に模倣するのではなく、肖像画や集団肖像へ応用しながら「人物の表情や室内空間を保持した」点にあると整理されています。

1890年の《シャルル・モース夫人の肖像》も、そうした時期の作品です。画面を構成する色は細かな筆触へ分けられていますが、そこに描かれているのは匿名の「女性」ではなく、特定の人物としての姿です。レイセルベルヘはLes XXをはじめとする身近な人間関係のなかから多くのモデルを選び、やがて文学者や芸術家たちの肖像、そして《エミール・ヴェルハーレンの朗読》のような群像画へと表現を広げていきました。

点描は、人物を機械的に色へ分解するためだけの技法ではありませんでした。レイセルベルヘにとっては、色彩の理論を守りながら、目の前にいる一人の人間をどう画面に残すかを考えるための方法にもなっていたのです。

シニャックの《オランピア》号で南フランスへ

1892年、レイセルベルヘはポール・シニャックの船《オランピア》号に乗り、南フランス方面へ向かいました。調査資料によれば、航海は3月26日頃に始まり、ボルドーからミディ運河を通って地中海方面へ進んだと考えられています。新印象派の画家として交流を重ねてきた二人が、今度は同じ船で移動しながら南へ向かったことになります。

この航海で目にした水面や空、海辺の光は、その後も二人の画家にとって重要な主題となっていきました。同年に制作された《舵を取る男》(L’Homme à la barre)は、この船旅との関係を考えるうえで欠かせない作品です。現在はオルセー美術館に所蔵されており、かつてはシニャック自身が所有していました。

レイセルベルヘの生涯をたどると、人との交流が制作の場所や作品の主題へ直接つながっていく場面が何度も現れます。Les XXを通じて新印象派の画家たちと出会い、その方法を自分の絵へ取り入れたこともそうでした。このシニャックとの航海もまた、画家同士の交流と、南フランスの風景を実際に見る経験とが重なった出来事のひとつでした。

Les XXの終わりと、新しい活動の始まり

1893年、Les XXは最後の年次展を迎えます。およそ10年にわたって国外の新しい芸術をブリュッセルへ紹介し、レイセルベルヘ自身の制作にも大きな影響を与えてきた活動は、ここでひとつの区切りを迎えました。しかし、Les XXの終了によって、そこで築かれた芸術家や批評家たちの交流まで失われたわけではありません。

ラ・リーブル・エステティーク展ポスター
テオ・ファン・レイセルベルヘ《ラ・リーブル・エステティーク展ポスター》1896年
画像出典:Wikimedia Commons(ベルギー王立図書館[KBR])/Free Art License

翌1894年からは、La Libre Esthétique(ラ・リーブル・エステティーク)がLes XXの流れを引き継ぐように活動を始め、レイセルベルヘも引き続きその展覧会や人的ネットワークに関わっていきます。団体の名称や運営の形は変わりましたが、ベルギーとフランスを結び、国外の新しい芸術を紹介する交流の基盤そのものは続いていきました。

そしてレイセルベルヘ自身も、この時期から活動の重心を次第にフランスへ移していきます。これまで画家を中心に広がっていた交流は、文学者や批評家、出版人などへさらに広がり、肖像画の主題にも変化をもたらしていきました。Les XXの終わりは、レイセルベルヘにとって前衛芸術との関係が終わる出来事ではなく、次の活動へ移っていく節目だったのです。

パリへ拠点を移し、文学者たちとの交流を深める

Les XXの後も続いた前衛芸術との交流

1893年にLes XXが最後の年次展を迎えても、そこで育まれた芸術家たちの交流まで終わったわけではありません。翌1894年にはLa Libre Esthétique(ラ・リーブル・エステティーク)が活動を始め、国外の新しい芸術をベルギーへ紹介し、異なる分野の表現を結びつけていく流れが受け継がれました。レイセルベルヘもその活動に関わりながら、ベルギーとフランスを行き来する前衛芸術のネットワークのなかに身を置き続けます。

そのつながりを示す出来事のひとつが、1895年のエラニー滞在です。ここにはカミーユ・ピサロが暮らしており、レイセルベルヘが同年にエラニーで制作した作品も確認されています。ただし、二人がどのような絵画論を交わしたのか、ピサロがレイセルベルヘに具体的な助言をしたのかについては、現在確認できる資料からは明らかではありません。それでも、レイセルベルヘが新印象派を作品だけから学んでいたのではなく、同時代の画家たちと実際に行き来し、同じ場所で制作するほど身近な関係を築いていたことは分かります。

1890年代後半になると、そうしたフランスとのつながりは、生活そのものにも表れるようになります。レイセルベルヘは1897~1898年頃にかけて、生活と活動の拠点をパリへ移していきました。移転年には資料によって違いがありますが、ある年を境に突然ベルギーを離れたというより、少しずつ活動の重心をフランスへ移していったと考える方が実際の経過に近いようです。

もちろん、パリへ移ったことでベルギーとの関係が途切れたわけではありません。展覧会や友人関係を通じて故国とのつながりを保ちながら、その一方で、日々の暮らしのなかではフランスの画家や文学者、批評家たちとより密接に交流するようになっていきました。Les XXの時代に展覧会を通して築いてきた国際的な交流が、ここからはさらに身近な人間関係として、レイセルベルヘの生活と制作のなかへ入り込んでいきます。

パリで広がった文学者・芸術家たちとのつながり

レイセルベルヘの周囲には、詩人エミール・ヴェルハーレン(Émile Verhaeren)、作家アンドレ・ジッド(André Gide)やモーリス・メーテルリンク(Maurice Maeterlinck)、批評家フェリックス・フェネオン(Félix Fénéon)、画家アンリ=エドモン・クロス(Henri-Edmond Cross)など、文学、美術、批評の世界に生きる人々が集まっていました。妻マリーのモノム家を通じて広がった出版・文学界とのつながりも、こうした交流を支えるひとつの背景となっています。

しかし、レイセルベルヘの生涯を考えるうえで大切なのは、有名な文化人と数多く知り合っていたということだけではありません。彼は、実際に交流していた人々を繰り返し絵に描きました。友人や作家、批評家、画家たちは肖像画のモデルとなり、レイセルベルヘの身近な人間関係が、そのまま作品のなかに残されていきます。

それは、一人の人物を描く肖像画だけに留まりませんでした。長く交流を重ねるうちに、人と人とのつながりそのものをひとつの画面にまとめるような群像画へと表現が広がっていきます。誰を描くのかという問題が、その人物をどのように配置し、周囲の人々とどのような関係のなかで見せるのかという問題へ変わっていったのです。

また、この時期の活動は油彩画だけではありません。レイセルベルヘは版画や書籍装飾、展覧会に関わる印刷物などにも仕事を広げており、絵画とは異なる形でも文学や出版の世界と関わっていました。出版人や文学者との交流は、肖像画のモデルを得るためだけのものではなく、彼自身の活動領域を絵画の外へ広げるものでもあったのです。

こうしてパリを中心に、人と人とのつながりがいっそう密になる一方で、レイセルベルヘの絵画にも静かな変化が進んでいました。新印象派との出会いから10年以上が経ち、細かな点を中心としていた筆触が、少しずつ別の形へと変わり始めていたのです。

細かな点から、少しずつ自由な筆触へ

レイセルベルヘの画風について、「1898年に点描をやめた」と明確な境界を設けることはできません。実際の作品を見ていくと、1890年代末から1900年代初頭にかけて、細かな点を用いる方法を残しながら、筆触の大きさや方向が少しずつ変化していったことが分かります。

1899年の《読書する女性と少女》(Une femme lisant et une fillette)には、異なる色を分けて置き、その組み合わせによって画面をつくる新印象派的な考え方がまだ明確に残っています。一方、1901年の《散歩》(La promenade)では、筆触はそれまでよりも長くなり、人物の衣服や身体、背景の形に沿うように置かれる部分が増えていきました。均一な細点を並べることよりも、描くものに応じて筆の動きを変えることが目立つようになっていきます。

この変化は、点描から別の技法へ一度に切り替わったものではありません。細かな点は少しずつ大きくなり、やがて長い筆触へ変わり、ときには色同士が画面上で混ざりながら、人物の身体や室内の奥行きもより自然な量感をもって描かれるようになります。その一方で、異なる色を分けて置き、隣り合う色同士の関係から画面を組み立てるという考え方は残り続けました。新印象派から学んだものを捨てるのではなく、自分が描こうとするものに合わせて使い方を変えていったと見る方が、この時期の作品にはよく当てはまります。

そして、筆触が変化していくのと並行して、人物表現もまた大きくなっていきました。若い頃に学んだ人体や空間の構成、点描を肖像画へ応用してきた経験、そしてパリやベルギーで築いてきた文学者や芸術家との交流。それまで別々に積み重ねられてきたものが、やがて複数の人物をひとつの室内へ集めた大きな群像画として結びつきます。

その作品が、1903年に完成する《エミール・ヴェルハーレンの朗読》です。

コラム

ロートレックもレイセルベルヘの絵を持っていた

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(別表記:トゥールーズ=ロートレック/Henri de Toulouse-Lautrec)も、レイセルベルヘの作品を所有していた画家の一人です。

確認されているのは、1889年に描かれた《À Thuin ou La Partie de tennis》(暫定訳:《チュアンにて/テニスの試合》)です。屋外でテニスを楽しむ人々を描いた作品で、レイセルベルヘ本人から贈られ、その後も最後の時までコレクションに残されていました。

ロートレックといえば、19世紀末のパリを舞台に、劇場やダンスホール、そこで生きる人々を描いた画家としてよく知られています。一方のレイセルベルヘは、同じ時代にベルギーを拠点としてLes XXの活動に加わり、フランスの前衛芸術家たちとの交流を広げていました。活動の中心や現在知られている作風は異なりますが、二人は同時代の前衛芸術をめぐる人間関係のなかで接点を持っていたのです。

作品を直接贈ったという来歴は、画家同士の交流を作品そのものが伝えてくれる例でもあります。レイセルベルヘの周囲には、スーラやシニャックだけでなく、さまざまな芸術家や文学者がいました。彼が所有していたこの一枚も、当時のヨーロッパ美術が国境を越えた人と作品のつながりのなかで展開していたことを示しています。

《エミール・ヴェルハーレンの朗読》へ|点描と人間関係がひとつの画面に

エミール・ヴェルハーレンの朗読
テオ・ファン・レイセルベルヘ《エミール・ヴェルハーレンの朗読》1903年、油彩・カンヴァス、ゲント美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Athenaeum)/Public Domain

レイセルベルヘの生涯をたどると、1903年の《エミール・ヴェルハーレンの朗読》(La Lecture par Émile Verhaeren)は、単に大きな代表作というだけではないことが分かります。
旅で見てきた光、Les XXを通して出会った前衛芸術、新印象派の色彩、長年描いてきた肖像画、そして文化人との交流。
それまで別々に積み重なってきたものが、大きな群像画のなかで交わっています。

3年ほどかけて生まれた大作

《エミール・ヴェルハーレンの朗読》は、1900年頃から構想が始まり、1903年に完成したと考えられています。縦181センチ、横241センチという大画面に、複数の人物と室内空間をまとめ上げた大作です。作品には1903年の年記があり、現在所蔵するゲント美術館も制作年を1903年としています。なお、同館での収蔵番号は「1906-R」で、作品が美術館に収蔵されたのは1906年です。そのため、制作年と収蔵年を混同しないよう注意が必要です。

レイセルベルヘは、この作品で初めて複数の人物を描いたわけではありません。点描を本格的に取り入れる以前の1885年にも、《Les Enfants de François》という集団肖像を残しています。また、その後も身近な家族や友人、文化人たちを繰り返し描き、人物の姿を画面のなかに置く経験を重ねてきました。

そのうえで《エミール・ヴェルハーレンの朗読》を見ると、この作品の大きさが少し違って見えてきます。ここでは、単に複数の人物を一枚の絵に描くだけではなく、それぞれの人物を描き分けながら、同じ室内のなかに配置し、互いの距離や視線、空間全体のまとまりまでひとつの構成として組み立てています。

人物を描くこと、室内を構成すること、分割された色彩によって画面をつくること。そのどれかひとつだけではなく、これまで培ってきた複数の要素を大きな画面のなかで同時に成立させているところに、この作品の重要さがあります。ゲント美術館がこの作品を、レイセルベルヘの肖像表現や構成技法を考えるうえで重要な到達点として位置づけているのも、そうした積み重ねを踏まえてのことなのでしょう。

実際の朗読会を描いたわけではない

題名だけを見ると、ある日の朗読会にレイセルベルヘも立ち会い、その場に集まっていた人々の姿をそのまま一枚の絵に記録したように思えるかもしれません。しかし、《エミール・ヴェルハーレンの朗読》は、特定の一回の集まりをそのまま写し取った作品ではありません。

舞台となっているのは、パリ近郊サン=クルーの室内です。そこに、レイセルベルヘが実際に交流していた文学者や芸術家たちが選ばれ、詩人エミール・ヴェルハーレンの朗読を中心とするひとつの場面として構成されています。つまり、現実に存在した人々を描きながら、その配置や組み合わせは画家によって組み立てられたものなのです。

この点は、作品を理解するうえでとても大切です。もし実際の一日の記録であれば、そこに描かれた人々は、たまたまその日に同じ場所へ集まった人物ということになります。しかし、レイセルベルヘが人物を選び、ひとつの室内へ配置したと考えると、この画面には別の意味が見えてきます。

それは、画家自身が長い時間をかけて築いてきた人間関係を、ひとつの空間として見せることです。

レイセルベルヘの周囲には、画家だけではなく、詩人、作家、批評家、出版に携わる人々がいました。Les XXの活動を通して広がった前衛芸術のつながりに、結婚やモノム家を通じた文学・出版界との交流、さらにパリでの日常的な交友関係が重なっていきます。《エミール・ヴェルハーレンの朗読》に描かれているのは、そうして長い年月をかけて形づくられた文化人たちの輪でした。

写真のように一瞬の出来事を残したのではなく、実在する人々と実際の交流をもとに、レイセルベルヘ自身がひとつの場面として組み立て直した。その意味で、この作品は単なる「朗読会の絵」ではなく、彼が生きていた文化的な環境そのものを描いた群像画と見ることができます。

画面に集められた文学者・芸術家たち

作品の題名にも名前が残されているエミール・ヴェルハーレンは、レイセルベルヘが長く交流を続けたベルギーの詩人です。二人の関係はこの一作だけで終わるものではなく、レイセルベルヘは後年にもヴェルハーレンの肖像を描いています。画家にとって彼は、たまたまモデルになった文学者ではなく、長い交友関係のなかにいた人物でした。

そして画面の周囲には、レイセルベルヘが文学、批評、美術の世界で築いてきたつながりを示す人々が集められています。ただし、この作品を見るために、一人ひとりの詳しい経歴を覚える必要はありません。むしろ注目したいのは、これほど異なる分野の人々が、なぜレイセルベルヘの一枚の絵のなかに集まっているのかということです。

若い頃のレイセルベルヘは、ダリオ・デ・レゴヨスら画家仲間とともにスペインやモロッコを旅しました。その後、Les XXの創設に加わり、ベルギーにいながらフランスをはじめとする国外の前衛芸術家と出会える環境に身を置きます。スーラやシニャック、ピサロら新印象派の画家との交流が深まる一方で、結婚後にはモノム家を通じて文学や出版の世界との接点も広がりました。さらにパリへ生活の重心を移すと、作家や詩人、批評家たちは、展覧会で名前を知る遠い存在ではなく、日常的に交流する人々になっていきます。

レイセルベルヘは、その人々を実際に描きました。個人の肖像として描くこともあれば、版画や書籍装飾など、絵画とは異なる仕事を通じて関わることもありました。《エミール・ヴェルハーレンの朗読》では、そうした長年の交流が、今度はひとつの大きな室内へ集められています。

ここに描かれているのは、単なる「著名人の集合」ではありません。レイセルベルヘ自身が暮らし、制作し、そのなかで築いてきた人間関係です。人物の顔を描くだけではなく、誰と誰を同じ空間に置くのかまで含めて画面を構成したことで、文化人たちのつながりそのものが作品の主題のひとつになっているのです。

レイセルベルヘの歩みが集まった一枚

《エミール・ヴェルハーレンの朗読》は、しばしばレイセルベルヘの点描を語るうえで大きな節目として扱われます。ただし、この作品を「最後の点描作品」と呼ぶことはできません。1903年以後の作品にも分割された色彩や点状の筆触は残っており、どこかひとつの年を境に、点描が突然姿を消したわけではないからです。

むしろ、この作品が重要なのは、それまでレイセルベルヘが歩んできた複数の道筋が、ひとつの画面へ集められていることにあります。

若い頃にはスペインやモロッコを訪れ、ベルギーとは異なる光と色を見つめました。Les XXの創設に加わると、国外の新しい美術を紹介する場をつくる側に立ち、やがてスーラやシニャックらの新印象派と出会います。そこで学んだ色彩分割の方法を自分の制作へ取り入れ、風景だけではなく人物にも応用しながら、独自の表現を探っていきました。

一方で、レイセルベルヘが長く描き続けてきたのは、人の姿でもありました。点描以前から集団肖像を手がけ、その後も家族や友人、文化人たちを繰り返し描いています。そしてパリを中心に文学者や芸術家との交流が広がると、その人々の関係そのものを、大きな室内のなかへまとめることができるようになりました。

《エミール・ヴェルハーレンの朗読》には、こうした人物表現の積み重ねに、新印象派から学んだ色彩と、複数の人物をひとつの空間へまとめる構成が重なっています。だからこそ、この作品は「初めて群像画を描いた作品」なのではなく、レイセルベルヘがそれまで培ってきた肖像表現、色彩、室内構成、そして文化人との人的ネットワークを、大規模な群像としてまとめた作品として見ることができます。

それは、点描期の集大成と呼ぶことのできる一枚であり、新印象派的な群像画を代表する作品のひとつでもあります。

そして、ここにはもうひとつ興味深いことがあります。これほど多くの経験をひとつの画面へまとめ上げた頃には、レイセルベルヘ自身の筆触は、すでに次の方向へ動き始めていました。細かな点を中心としていた描き方は少しずつ大きく、長い筆触へと変わり、色彩の扱いもより自由になりつつあったのです。

ひとつの方法を身につけ、その方法で大きな成果を残しながら、その完成のなかにすでに次の変化が始まっている。《エミール・ヴェルハーレンの朗読》は、レイセルベルヘのこれまでを集めた作品であると同時に、その先に続く晩年の絵画へと静かにつながっていく一枚でもあります。

点描の先へ|南フランスでたどり着いた、より自由な色彩

《エミール・ヴェルハーレンの朗読》が完成した1903年頃、レイセルベルヘの絵はすでに、かつての細かな点を中心とした表現から少しずつ変わり始めていました。その変化は、この大作を描き終えたことで突然始まったものではありません。1890年代末には筆触の大きさや方向に変化が見られるようになり、1900年代に入ると、点状の筆触はさらに長く、自由なものへと移っていきます。

そのため、レイセルベルヘの後半生を「点描をやめた時代」とだけ捉えると、かえって作品の変化が見えにくくなってしまいます。新印象派から取り入れた色彩の考え方を捨てたのではなく、それを残しながら、描くものに合わせて筆触そのものを変えていった。そう考えると、若い頃に新しい技法を受け入れた画家が、今度は自分のなかに定着したその方法をさらに変化させていく姿が見えてきます。

点描を捨てたのではなく、筆触を変えていく

レイセルベルヘが新印象派から取り入れたものは、小さな点を並べるという表面的な描き方だけではありませんでした。異なる色をあらかじめ混ぜ切らず、それぞれを画面の上に置くこと。隣り合う色同士の関係を考えながら、画面全体の色彩を組み立てること。そして、光のなかで色がどのように見えるのかを意識すること。こうした考え方は、点状の筆触そのものが変わった後にも、レイセルベルヘの作品のなかに残り続けます。

1890年代末から1900年代にかけての作品を見ると、細かな点状の筆触は少しずつ大きくなり、短い線やモザイクのような筆触へと姿を変えていきます。それは、かつての点描をただ大きくしたものではありません。人物を描くときには身体や衣服の形に沿うように筆が動き、風景では木々や地面、海や空の広がりに応じて、筆触の方向や長さも変化するようになりました。色を分けて置くという考え方を残しながら、それぞれの対象に合った筆の動きを選ぶようになっていったのです。

こうした変化を見ていると、「レイセルベルヘはいつ点描をやめたのか」という問いに、ひとつの年を答えることが難しい理由も分かります。1898年頃から変化の兆しは見えますが、その後も新印象派的な色彩分割は作品のなかに残り、《エミール・ヴェルハーレンの朗読》が完成する1903年頃まで、点状の筆触も重要な役割を果たしていました。その一方で、同じ時期に筆触は次第に大きく、長くなっています。ひとつの技法が消えてから別の技法が始まったのではなく、古い方法と新しい方法が重なり合いながら、数年をかけて画面の性格が変わっていったのです。

若い頃のレイセルベルヘは、スーラやシニャックらの新印象派に出会うと、その方法をそのまま写すのではなく、自分が描いてきた風景や人物へ応用しました。そして今度は、自らの画風として定着した点描についても、ひとつの形のまま守り続けることはありませんでした。描く対象や光に応じて筆触を変え、色彩の使い方を広げながら、自分の絵に必要な方法へと作り替えていったのです。

サン=クレールへ、暮らしと制作の場を移す

1910年頃から、レイセルベルヘの生活は南フランスへと重心を移していきます。新たな拠点となったのは、地中海に面したル・ラヴァンドゥー市のサン=クレールでした。移住の時期については資料によって1910年と1911年に分かれており、現在のところ、どちらか一方の年だけを「移住年」として確定することは難しいとされています。

この違いは、資料によって「サン=クレールへ移った」とみなす時点が異なっている可能性があります。1910年頃から現地での生活が本格化し、1911年には家族とともに移ったとする資料も確認されています。そのため、1910年頃からサン=クレールを主要な拠点とし、1911年までには家族の定住が整っていった、と見るのが現在確認できる資料にはよく合います。

もちろん、南フランスへ移ったことで、パリやベルギーとの関係をすべて断ったわけではありません。これまで築いてきた友人や芸術家たちとの交流は続き、制作や展覧会を通じたつながりも残っていました。ただ、暮らしの場が変われば、日々目にするものは大きく変わります。レイセルベルヘの周囲には、地中海の海と空、海岸の松、強い日差しを受ける土地の色が広がるようになりました。

南の土地そのものは、レイセルベルヘにとって初めての経験ではありません。若い頃にはスペインやモロッコを旅し、1892年にはシニャックの《オランピア》号で南フランス方面を航海しています。それでも、旅先として南を訪れることと、そこを日々の生活と制作の場所にすることは同じではありません。サン=クレールでは、地中海の風景が一時的な旅行の記録ではなく、繰り返し向き合う身近な主題となっていきました。

そして、この新しい環境と、すでに進んでいた筆触の変化が重なります。細かな点を重ねて光を組み立てていた時代から、より大きく自由な筆触で色を置く時代へ。サン=クレールの風景は、晩年のレイセルベルヘがたどり着いた新しい色彩表現を、はっきりと見ることのできる場所となっていきます。

地中海の光を、より自由な色彩で描く

その変化をよく示しているのが、1915年の《地中海の松、夕暮れ》(Pine-Tree near the Mediterranean Sea at Sunset)です。ゲント美術館に所蔵されるこの作品は、1890年代の細かな点を中心とした作品とは、画面の印象が大きく異なります。

地中海の松、夕暮れ
テオ・ファン・レイセルベルヘ《地中海の松、夕暮れ》1915年、油彩・パネル、ゲント美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(MSK Gent)/Public Domain

たとえば1890年の《サンブル渓谷》では、小さな筆触を積み重ねながら、色彩の関係によって風景全体を組み立てていました。それに対して《地中海の松、夕暮れ》では、松や空、地面を形づくる色が、より大きく、長い筆触として置かれています。細かな点を画面全体へ重ねていく方法は後退し、色の帯ともいえるような大胆な筆の動きが、風景そのものの形や広がりをつくっています。

ゲント美術館も、この作品について、レイセルベルヘが点描的な筆触から、より大胆な帯状の筆触へ移っていったことを示す作品として紹介しています。新印象派の時代に身につけた方法から離れながら、色彩そのものへの関心はむしろ強く画面に残っていることが分かります。

ここで改めて《サンブル渓谷》と見比べると、レイセルベルヘの変化がよく見えてきます。筆触の形は大きく異なっていますが、色同士の関係を丁寧に組み立てようとする姿勢まで失われたわけではありません。ひとつの色で形を塗りつぶすのではなく、異なる色を隣り合わせ、その響き合いによって光や風景を表そうとする考え方には、新印象派を経験した画家らしさが残されています。

つまり、晩年のレイセルベルヘは、かつての点描を否定することで新しい画風へ向かったのではありません。細かな点状の筆触が後退した後にも、そこから得た色彩感覚を持ち続け、それをより自由な筆触へと置き換えていきました。

若い頃、モロッコで強い光と色を見つめた画家は、その後、新印象派から色を分けて置く方法を取り入れました。そして南フランスに暮らすようになった頃には、そこで得たものを自分のなかで消化し、再び地中海の光を、今度はより自由な色彩で描くようになっていたのです。

晩年も描き続けた「人」

サン=クレールで描かれた海や松の作品を見ると、晩年のレイセルベルヘを南フランスの風景を描いた画家として捉えたくなります。しかし、彼の画業を最後までたどると、人間の姿を描くという主題もまた、途切れることなく続いていたことが分かります。

1915年には、長年の友人だったエミール・ヴェルハーレンの肖像を制作しています。《エミール・ヴェルハーレンの朗読》から十年以上が過ぎても、レイセルベルヘとヴェルハーレンの交流、そして友人を描くという仕事は続いていました。点描の技法が変化しても、人を見つめ、その姿を画面へ残すという関心まで失われたわけではありません。

さらに1920年には、《浜辺の女性裸体―「水浴者たち」のための習作》(Nu féminin à la plage, étude pour “Les Baigneuses”)が残されています。赤と黒のチョークで描かれたこの習作からは、晩年になっても人体を観察し、《水浴者たち》のために身体の姿勢や構成を検討していたことが分かります。南フランスへ移った後も、海辺の風景だけではなく、裸婦や水浴者、肖像といった人物主題に取り組み続けていたのです。

振り返れば、人物を描くことはレイセルベルヘの画業のかなり早い時期から続いていました。ヘントでは人体素描を学び、点描を知る以前から肖像や集団肖像を手がけ、新印象派の方法を身につけると、その色彩を人物表現にも応用しました。パリでは文学者や芸術家たちを描き、《エミール・ヴェルハーレンの朗読》では、実際に交流関係にあった文化人たちを、大きな群像としてまとめています。そして、細かな点描から離れていった晩年にも、人物は画面から消えることがありませんでした。

もちろん、若い頃の教育から晩年の人物画までを一本の因果関係で結ぶことはできません。それでも、風景と並んで人間の姿が長くレイセルベルヘの画面に残り続けたことは確かです。旅先の光を描き、新しい色彩理論を学び、地中海の風景へ向かった画家である一方で、人を見つめ、描き続けた画家でもありました。

点描から自由な筆触へと画風が変わっても、描く対象まで一緒に入れ替わったわけではありません。新しい風景を見つめながら、長く向き合ってきた人物も描き続ける。その二つの流れが並んで残っているところにも、レイセルベルヘの晩年の豊かさを見ることができます。

1926年、永眠。『テオ・ファン・レイセルベルヘ』という画家が残したものとは

若い頃にベルギーを離れ、新しい光や色を求めて旅をしたレイセルベルヘ。その後も、人との出会いや新しい芸術との交流を重ねながら、描き方を少しずつ変えていきました。

そして1926年、その64年の生涯は南フランスで幕を閉じます。では、彼が最後まで描き続けたものとは何だったのでしょうか。残された作品とその歩みをたどりながら、レイセルベルヘという画家が後の時代に残したものを、改めて見つめてみましょう。

レイセルベルヘが最後まで向き合い続けたもの

レイセルベルヘの画風は、生涯のなかで大きく変化していきました。モロッコで見つめた光、新印象派から学んだ点描、そして南フランスでたどり着いた自由な筆触。しかし、描き方が変わっても、その画面から「自然」と「人」が消えることはありませんでした。

風景では土地ごとに異なる光や色を見つめ、人物では家族や友人、文化人の肖像から晩年の裸婦や水浴者まで描き続けています。ひとつの技法に留まることなく表現を変えながらも、目の前の自然と人間を見つめること。それは、1926年に生涯を閉じるまで、レイセルベルヘの制作を貫いた大きな主題のひとつでした。

未来に残した“形あるもの”

レイセルベルヘが残したものは、ひとつの時代や技法だけでは語りきれません。モロッコで見つめた光、新印象派から取り入れた色彩、身近な人々を描いた肖像や群像、そして南フランスでたどり着いた自由な筆触。その歩みは、油彩だけでなく版画や書籍装飾にも刻まれました。いま各地に残るそれらの作品は、画家がその時々に見たもの、出会った人、試みた表現を伝える、小さな証のようにも見えます。

一枚の絵から次の一枚へとたどっていけば、そこには完成したひとつの様式ではなく、変化を重ねながら生きたレイセルベルヘの時間が残されています。その作品は今も見る人の前に置かれ、それぞれの時代の鑑賞者に、新たな発見や感じ方を静かに手渡し続けているのかもしれません。

未来に託した“考え方”

レイセルベルヘが後世へ向けて、何かひとつの思想を言葉にして託したわけではありません。それでも、その生涯からは、彼が芸術とどう向き合っていたのかが少しずつ見えてきます。新しい技法に出会えば学びながらも、それを規則として守るのではなく、自分が描く風景や人に合わせて変えていく。ひとつの画風が形になった後でさえ、そこに留まりませんでした。

また、自分の制作だけに閉じこもるのではなく、Les XXでは新しい作品や人が出会う場にも関わっています。そこから見えてくるのは、「これが自分の様式だ」と完成を急ぐより、外の世界に開かれ、他者から受け取ったものを自分なりに育て直していく姿勢です。芸術は一人で守り続けるものではなく、人や場所との出会いのなかで変わってもいい。そんな考え方が、彼の歩みの奥に静かに流れていたようにも感じられます。

引用・参考元はこちら
Musée d’Orsay
・「Théo Van Rysselberghe」作家典拠
・《L’Homme à la barre》作品記録
MSK Gent
・《Boucherie à Tanger》
・《La Vallée de la Sambre》
・《La Lecture par Émile Verhaeren》
・《Pine-Tree near the Mediterranean Sea at Sunset》
Musées royaux des Beaux-Arts de Belgique
・レイセルベルヘ作品データ
Museo Nacional del Prado
・「Rysselberghe, Théophile van」作家略歴
Bibliothèque nationale de France
・「Van Rysselberghe, Théo (1862–1926)」人物典拠
・「Les Vingt」団体典拠
・『Correspondance avec André Gide et les siens, 1899–1926』
・『Théo Van Rysselberghe : exposition d’ensemble』Galerie Giroux, 1927
展覧会カタログ・文献
・Catalogue de la Ve exposition des XX, Bruxelles, 1888
・Ronald Feltkamp, Théo Van Rysselberghe, 1862–1926: catalogue raisonné, 2003
その他
・Le Lavandou市公式文化遺産・墓地資料
※作品名の日本語訳には暫定訳を含みます。図版掲載時は、作品の著作権とは別に、各所蔵館が提供するデジタル画像の利用条件・クレジット表記をご確認ください。