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絵画芸術

ヨハネス・フェルメールの生涯|デルフトで静かな光を描いた43年

窓の左側から差し込む、やわらかな光。手紙を読む女性。静かに牛乳を注ぐ女。こちらを振り返り、今にも何かを語りかけそうな少女。

ヨハネス・フェルメールの絵には、音を立てることをためらうような静けさがあります。けれども、その作品を生み出した画家の人生は、決して静かなものではありませんでした。

フェルメールは、宿屋と美術商を営む父のもとで育ちました。21歳で画家として独立し、裕福なカトリック家庭の女性と結婚します。画家として作品を制作する一方で、他人の絵を扱う美術商としても働き、デルフトの聖ルカ組合では理事を務めました。家庭には多くの子どもがいました。そして晩年には、戦争と美術市場の不況に巻き込まれ、借金を抱えたまま43歳で亡くなっています。

本人の日記や手紙、芸術について記した文章は、ほとんど残されていません。私たちは、洗礼や婚姻、組合、借金、埋葬、家財目録などの断片的な記録と、わずか35〜37点ほどの作品をつなぎ合わせながら、その生涯をたどることになります。

静かな室内を描いた画家は、どのような町に生まれ、どのように絵を学び、何を見つめて生きたのでしょうか。ここから、17世紀のオランダの町デルフトへ歩みを進めてみましょう。

ヨハネス・フェルメールはどんな人?

ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、17世紀のネーデルラント連邦共和国、現在のオランダにあたる地域で活動した画家です。正確な生年月日は分かっていませんが、1632年10月31日にデルフトの新教会で洗礼を受けた記録が残されています。

生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごし、歴史画、風俗画、都市景観、寓意画などを描きました。現在よく知られているのは、静かな室内で手紙を読む女性や家事をする女性を描いた作品です。しかし若い頃から、その画風が完成していたわけではありません。初期には宗教や神話を題材とする大きな歴史画を制作し、そこから少しずつ日常の室内へと視線を移していきました。

フェルメールは画家であると同時に、美術商でもありました。絵画の価値や真贋を判断する場に参加した記録もあります。また、デルフトの画家や美術職人、美術商が所属する聖ルカ組合では、理事・組合長格の役職を複数年にわたって務めました。生前まったく知られていなかった画家ではなく、少なくともデルフトの美術共同体では、一定の信頼を得ていた人物だったことが分かります。

一方で、作品が広い地域へ大量に流通した形跡はありません。現存する作品は、美術館や研究機関の判断によって差があるものの、およそ35〜37点です。少ない作品数と、本人について語る資料の乏しさが、後世のフェルメール像をいっそう遠いものにしてきました。

フェルメールの生涯・簡易年表

  • 1632年:デルフトで洗礼を受ける
  • 1652年:父レイニエルが亡くなる
  • 1653年:4月カタリーナ・ボルネスと結婚
  • 1653年:12月聖ルカ組合に親方画家として登録される
  • 1653〜55年:頃宗教画や神話画を中心に制作
  • 1656年:《取り持ち女》を制作し、風俗画への転換が明確になる
  • 1660年代前半〜半ば:代表的な室内画や都市景観を制作
  • 1662〜63年:聖ルカ組合の理事・組合長格を務める
  • 1670〜71年:再び聖ルカ組合の役職を務める
  • 1672年:「災厄の年」以後、家計と美術商の仕事が悪化
  • 1675年:12月43歳で亡くなり、旧教会へ埋葬
  • 1676年:家財目録が作成され、妻が債務整理を申請

デルフトの画商と宿屋経営者の家に生まれる

ヨアン・ブラウ《デルフト市街図》1649年
ヨアン・ブラウ《デルフト市街図》1649年
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Sanderus Maps)/Public Domain
※この画像はフェルメールの作品ではありません。17世紀オランダの地図製作者ヨアン・ブラウが制作した、当時のデルフトを示す都市図です。

フェルメールが生まれた17世紀のオランダでは、絵画は王侯や教会だけのものではなくなりつつありました。商業によって豊かになった都市の市民たちが、自宅に飾る絵を求めるようになったのです。

宗教や歴史を描いた大画面だけでなく、風景画、静物画、家庭の一場面を描いた風俗画など、多様な絵が取引されました。画家たちは注文を待つだけではありません。ある程度の需要を見込みながら作品を制作し、画商や市場を通して売ることもありました。絵画は芸術であると同時に、都市の商業を支える商品の一つでもあったのです。

デルフトもまた、画家、美術職人、美術商が働く町でした。青と白の陶器で知られる町ですが、絵画の制作と売買も盛んでした。独立して仕事をする画家たちは、聖ルカ組合に所属し、職業人として町の共同体に加わっていました。

そのデルフトで、フェルメールは1632年に生まれます。10月31日、改革派プロテスタントの新教会で洗礼を受けました。父はレイニエル・ヤンスゾーン、母はディフナ・バルテンスです。

父レイニエルは、一つの仕事だけをしていた人物ではありませんでした。「カッファ」と呼ばれる絹織物を扱う職人であり、宿屋の経営者であり、美術商でもありました。1641年までには、デルフトのマルクト広場に面した建物「メーヘレン」を取得し、宿屋を営んでいます。

マルクト広場は、町の中心です。教会や市庁舎があり、人と商品と情報が行き交います。レイニエルは、そのにぎわいのすぐそばで客を迎え、商売をしていました。美術商でもあった父のもとでは、絵画は遠い世界のものではなかったでしょう。作品を描くことだけでなく、値段をつけ、買い手を探し、商品として扱う営みも、家庭の近くにあったと考えられます。

ただし、幼いフェルメールが宿屋で多くの名画を見た、父から絵を教わった、早くから特別な才能を示したといった物語を裏づける記録はありません。学校生活や少年時代の性格も分かっていません。私たちに見えるのは、絵画と商売が身近にあり得た家庭環境までです。

1652年、父レイニエルが亡くなります。20歳前後になっていたフェルメールは、父の美術商としての仕事を引き継いだ可能性が高いと考えられています。ただし、どのような顧客と取引し、どの程度の規模で商売を続けたのかを示す詳しい営業記録は残されていません。

フェルメールの人生では、確かな記録と推測の間に、いつも細い境界線があります。父の死は、若者が家の仕事と自分の将来を同時に引き受ける節目だったのでしょう。しかし、そのとき何を考えたのかは、作品からも文書からも知ることができません。

コラム①

父が営んでいた宿屋「メーヘレン」

フェルメールの父レイニエルが営んでいた宿屋「メーヘレン」は、デルフトの中心、マルクト広場に面していました。市庁舎や新教会を望むこの広場は、商人や旅人、市民が行き交う町の要所です。宿屋もまた、ただ眠るための場所ではありませんでした。食事をとり、酒を酌み交わし、遠くの町の出来事や商売の話が交わされる、にぎわいのある交流の場だったと考えられます。

レイニエルは宿屋の主人である一方、聖ルカ組合に登録された美術商でもありました。そのため「メーヘレン」には、宿泊客だけでなく、絵を売りたい画家や作品を探す客が訪れた可能性があります。建物の中で実際にどのような取引が行われたのか、若いフェルメールがそこでどの作品を目にしたのかは分かっていません。しかし、絵画が教会や宮殿だけのものではなく、値段をつけられ、選ばれ、売買される商品でもあることを、彼が身近に感じられる環境だったことは想像できます。

後にフェルメールは、画家として作品を描くだけでなく、父と同じように美術商としても働きました。静かな室内画で知られる彼の出発点には、人と物と情報が絶えず行き交う、町の中心の宿屋があったのです。

記録の残らない修業期間

フェルメールは、どこで絵を学んだのでしょうか。これは、生涯をたどるうえで最初に現れる大きな空白です。

17世紀のオランダで親方画家になるためには、一般に、すでに独立している画家の工房で修業を積む必要がありました。徒弟は、絵具の準備、素描、模写、構図、人物表現などを段階的に学びます。工房は技術を身につける学校であると同時に、絵画を商品として制作する仕事場でもありました。

フェルメールも、どこかで何らかの修業を受けたと考えるのが自然です。けれども、徒弟契約や修業登録、特定の親方との師弟関係を直接示す文書は見つかっていません。

師匠の候補として、デルフトで活動したレオナールト・ブラーメルや、カレル・ファブリティウスの名が挙げられてきました。

アントニー・ファン・デル・ドゥース《レオナールト・ブラーメルの肖像》とファブリティウス《自画像》
左:アントニー・ファン・デル・ドゥース《レオナールト・ブラーメルの肖像》/右:カレル・ファブリティウス《自画像》
画像出典:Wikimedia Commons/CC0・Public Domain

ブラーメルはフェルメール家と接点があり、のちに結婚の手続きにも関わります。ファブリティウスはレンブラントの弟子として知られ、デルフトで新しい空間表現を試みた画家でした。

しかし、作品に似たところがあることや、同じ町で活動したことだけで、師弟関係を証明することはできません。フェルメールがユトレヒトやアムステルダムなど、デルフト以外の都市で学んだ可能性も論じられていますが、これも確定していません。

分からないことばかりに見える修業時代ですが、一つだけ、はっきりした到達点があります。1653年12月、フェルメールはデルフトの聖ルカ組合へ、親方画家として登録されました。つまり、それまでには独立した画家として認められる技能を身につけ、必要な修業を終えていたと考えられるのです。

誰に教わったのかは分かりません。どの町の工房で、どのような一日を過ごしたのかも分かりません。それでも、記録のない数年間のどこかで、若いフェルメールが絵画という職業の基礎を身につけたことは確かです。

1653年、結婚と画家としての独立

1653年は、フェルメールの人生が大きく動いた年です。春には結婚し、冬には親方画家として登録されました。家庭を築くことと、職業人として独立することが、同じ一年の中で重なっています。

カタリーナとの結婚とカトリックの家庭

結婚相手は、カタリーナ・ボルネスでした。彼女は、裕福なカトリック家庭の出身です。フェルメールは改革派プロテスタントの教会で洗礼を受けていたため、二人の結婚には宗派の違いがありました。

1653年4月4日から5日にかけて、レオナールト・ブラーメルらが、カタリーナの母マリア・ティンスが結婚への反対を撤回したことを証言しています。4月5日には、フェルメールとカタリーナがデルフトで婚約登録を行いました。その後、同じ月に、デルフト近郊のスヒプライデンにあるカトリック教会で結婚したと、複数の公式資料が伝えています。

マリア・ティンスが、なぜ当初反対したのかは明確ではありません。宗派の違いだけでなく、両家の経済状態や社会的な立場も関係した可能性があります。しかし、理由を一つに決めることはできません。

フェルメールは、結婚の前後にカトリックへ改宗した可能性が高いと考えられています。結婚後の生活環境や、晩年にカトリック的な題材の作品を描いたことも、その見方を支える材料です。ただし、正式な改宗記録は確認されていません。結婚の条件として改宗したのか、本人の信仰によるものだったのかも分かりません。

夫妻は、結婚後しばらくして、義母マリア・ティンスの家で暮らすようになりました。正確な移住時期は不明ですが、遅くとも1650年代末から1660年頃までには、デルフトのカトリック地区にある家で生活していたと考えられます。近くにはイエズス会の施設があり、表立った活動に制限のあったカトリック共同体が、互いに支え合って暮らしていました。

フェルメールとカタリーナの間には、多くの子どもが生まれました。総数は14人または15人と資料によって異なりますが、11人が幼少期を越えた点は複数の公式資料が一致しています。フェルメールが亡くなったときにも、妻と11人の子どもが残されました。

義母、夫妻、子どもたち、使用人が同じ家で暮らしていたと考えられます。そこは住居であると同時に、制作の場であり、美術商の仕事を行う場でもあったのでしょう。

フェルメールの絵に描かれた静かな部屋を見ていると、つい、彼が静寂に包まれた環境で制作していたと思いたくなります。しかし、大家族の生活と絵の静けさを、単純な因果関係で結ぶことはできません。作品の人物が妻や娘、使用人だったという証拠もありません。絵の中の静けさは、家庭の騒がしさから逃れた結果ではなく、画面の中で慎重に組み立てられた表現として見る必要があります。

聖ルカ組合へ加入し、親方画家となる

1653年12月29日、フェルメールはデルフトの聖ルカ組合へ、親方画家として登録されました。21歳のときです。

聖ルカ組合
作者不詳「デルフトの聖ルカ組合を描いた銅版画」1730年代
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:『ユリイカ』2008年8月号)/Public Domain
※1730年代に制作された版画で、フェルメール存命中の同時代資料ではありません。

聖ルカ組合とは、画家、美術職人、美術商などが所属した職業組合です。独立して作品を制作し、販売するための資格や秩序を管理し、同業者の共同体を形づくっていました。組合に加入したことで、フェルメールは自分の名で作品を売る親方画家となり、弟子を受け入れる資格も得ました。

加入料の支払いに時間がかかったと紹介されることがあります。ただし、今回確認できた資料だけでは、その事情を経済的困窮の証拠として強く扱うことはできません。若い画家の出発が、すぐに安定した成功を意味したわけではないでしょうが、少なくともこの日から、フェルメールは公的に認められた職業画家として歩み始めました。

弟子を取る資格はありましたが、正式な弟子の登録記録は見つかっていません。工房をどのように運営し、誰かが制作を手伝っていたのかは、現在も研究の余地を残しています。

歴史画から、日常を描く室内画へ

現在のフェルメールを知る人が、初期作品を初めて見ると、少し驚くかもしれません。そこには、窓辺に立つ一人の女性ではなく、聖書や神話に登場する複数の人物が、大きな画面いっぱいに描かれているからです。

若いフェルメールは、歴史画家として出発しました。歴史画とは、宗教、神話、歴史などを題材にする絵画です。当時は、さまざまな画題の中でも格の高い分野と考えられていました。

「マリアとマルタの家のキリスト」「ディアナとニンフたち」「聖プラクセディス」

左から《マルタとマリアの家のキリスト》《ディアナとニンフたち》《聖プラクセディス》
ヨハネス・フェルメール/画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain

『マルタとマリアの家のキリスト』(左)は、フェルメールの現存作の中でも大きな作品です。聖書の場面を扱い、三人の人物を力強く配置しています。

『ディアナとニンフたち』(中央)は、古代神話の女神と従者たちを描いた作品です。沈んだ色調と静かな人物のまとまりには、のちのフェルメールを思わせる部分もありますが、空間のつくり方も筆づかいも、成熟期の室内画とは大きく異なります。

『聖プラクセディス』(右)も初期の宗教画として挙げられますが、この作品は現在も帰属に議論があります。フェルメールの確実な作品として、ほかの作品と同じように扱うことはできません。

「取り持ち女」

ヨハネス・フェルメール《取り持ち女》1656年、油彩・カンヴァス、アルテ・マイスター絵画館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Yorck Project)/Public Domain

大きな変化が見えるのは、1656年の『取り持ち女』です。

これは署名と年記を持つ作品で、酒場のような場所に集まる同時代の人物を描いています。宗教や神話の世界から、身近な社会の場面へ。フェルメールが風俗画へ向かう転換点が、ここにははっきりと表れています。

画面左端で杯を持ち、こちらを向く男性をフェルメールの自画像とする説もあります。しかし、本人だと確認できる肖像が残っていないため、断定はできません。

「眠る女」「小路」「デルフトの眺望」

左から《眠る女》《小路》《デルフトの眺望》
ヨハネス・フェルメール/画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain

『眠る女』1656〜57年頃(左)では、舞台は室内へ移ります。テーブルに身を預ける女性の周囲には、絨毯や器、椅子が置かれています。科学調査では、制作の途中まで別の人物が描かれていたことが分かっています。フェルメールは、完成形を最初から迷いなく描いたのではありません。人物を消し、物を減らし、画面の関係を整えながら、静かな構図へ近づいていったのです。

『小路』(中央)では、デルフトの建物と路地が題材になりました。洗濯桶にかがむ女性や戸口で針仕事をする女性、遊ぶ子どもたちが小さく描かれ、都市の景観と日常生活が一つの画面に収められています。

『デルフトの眺望』(右)では、町の港と建物、雲の間から差す光が、広い空間の中で組み立てられました。

「牛乳を注ぐ女」

ヨハネス・フェルメール《牛乳を注ぐ女》1660年頃、油彩・カンヴァス、アムステルダム国立美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain

そして『牛乳を注ぐ女』では、一人の女性と、彼女の手元へ画面が集中します。

女性は、容器から牛乳をゆっくりと注いでいます。窓から入る光は、壁の凹凸やパンの表面、衣服の厚みを一つずつ照らします。大きな事件は起こっていません。それでも、わずかな動作が、時間を止めたような強さを持っています。

なぜフェルメールは、歴史画から風俗画へ主題を移したのでしょうか。本人の説明は残っていません。同時代の市民が室内画を求めたこと、風俗画を描く画家たちの活動、デルフトの美術市場、顧客の好みなど、複数の背景が考えられます。

ただし、一日で画風を変えたわけではありません。宗教画と神話画から、酒場の場面へ。そこから家庭の室内、路地、町の景観へ。フェルメールは数年をかけて、自分が見つめる対象を少しずつ絞っていきました。

静かな室内画を確立した成熟期

フェルメールの成熟期は、一般に1660年代を中心に考えられています。より丁寧に見るなら、1656年頃に風俗画への転換が明確になり、1660年代前半に光、色、空間の構成が安定し、1665年前後に代表作が集中した時期です。

この頃、フェルメールは、手紙を読む女性、手紙を書く女性、楽器を演奏する人物、家事をする女性などを繰り返し描きました。多くの作品で、光は画面の左側から入ります。窓そのものが見える作品もあれば、窓は画面の外にあり、差し込む光だけが室内に広がっている作品もあります。

「手紙を読む青衣の女」「天秤を持つ女」

手紙を読む青衣の女、天秤を持つ女
左から《手紙を読む青衣の女》《天秤を持つ女》
ヨハネス・フェルメール/画像出典:Wikimedia Commons/Public Domain

『手紙を読む青衣の女』では、青い上着を着た女性が、手紙を両手で持っています。背景には大きな地図が掛かり、女性の周囲を淡い光が包みます。手紙の内容も、相手も、彼女の表情の理由も説明されません。鑑賞者は、画面に残されたわずかな手がかりから、そこに至る物語を想像します。

『天秤を持つ女』では、女性が小さな天秤を持ち、静かに釣り合いを見つめています。背後には最後の審判を描いた絵が掛けられ、手前には宝飾品が置かれています。宗教的、道徳的な意味を読み取ることはできますが、作品は一つの答えだけを示しません。日常の動作と寓意が、同じ静けさの中で重なっています。

「真珠の耳飾りの少女」

真珠の耳飾りの少女
ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》1665年、油彩・カンヴァス、マウリッツハイス美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain

『真珠の耳飾りの少女』は、現在、フェルメールの名ともっとも強く結びついた作品の一つです。けれども、これは特定の人物を記録する正式な肖像画ではなく、「トローニー」と考えられています。トローニーとは、表情や衣装、人物の型を見せるために描かれた人物像です。

少女が誰なのかは分かりません。耳飾りが本物の真珠なのかについても議論があります。分かっているのは、暗い背景の前で少女が振り返り、わずかに開いた唇と、光を受ける耳飾りが見る人の視線を引きつけるということです。モデルの名前が分からなくても、顔がこちらへ向く一瞬の力は失われません。

「絵画芸術」

絵画芸術
ヨハネス・フェルメール《絵画芸術》1666–1668年頃、油彩・カンヴァス、ウィーン美術史美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:Google Arts & Culture)/Public Domain

『絵画芸術』は、画家の背中と、モデルとなる女性、地図、シャンデリア、カーテンなどを組み合わせた大きな作品です。後ろ姿の画家をフェルメール本人と見る説がありますが、確定していません。それでも、画家がどのような空間で対象を見つめ、画面をつくるのかを考えさせる作品です。

フェルメールの室内画では、人物だけが主役ではありません。椅子、絨毯、地図、楽器、手紙、陶器、窓、壁。すべての物が、光の中で位置を与えられています。日常の道具は、単なる背景ではなく、人物の沈黙を支え、空間の時間を形づくる存在です。

そして、画面はすべてを説明しません。手紙には何が書かれているのか。音楽は始まる前なのか、終わった後なのか。女性は何を考えているのか。答えが描かれていないからこそ、鑑賞者は作品の前で立ち止まります。

フェルメールの成熟期とは、日常的な題材を、光、色、距離、沈黙によって特別な場面へ変えた時期でした。静けさは、何も起こっていない状態ではありません。何かが起こる直前、あるいは何かが過ぎた直後のような、時間を含んだ静けさなのです。

コラム②

静かな部屋の壁に広がる世界

フェルメールの室内画を眺めていると、人物の背後に大きな地図が掛けられていることに気づきます。手紙を読む女性や楽器を奏でる人々が過ごす静かな部屋。その壁には、オランダの諸州やヨーロッパの土地が、海岸線や都市名とともに細かく描かれています。閉ざされた室内の中に、遠くまで続く世界が静かに広がっているのです。

17世紀のオランダは、航海や海外貿易によって発展した国でした。船は各地の港を行き来し、遠い土地からさまざまな品物や情報が運ばれてきます。測量や地図製作の技術も進み、地図は航海に使われるだけでなく、知識や豊かさを示す室内装飾として市民の家に飾られるようになりました。フェルメールの絵に登場する地図も、当時の暮らしと外の世界とのつながりを感じさせる品の一つです。

ただし、地図に特別な意味が込められているのか、単に実際の室内にあった装飾品を描いたのかは、作品によっても解釈が分かれます。それでも、地図が画面にもたらす広がりは印象的です。窓から差し込む光、手紙に記された見知らぬ言葉、壁いっぱいに描かれた土地。静かに見える部屋の外側には、商売や旅、国家や人々の交流が続いています。フェルメールの室内画は、外の世界から切り離された場所ではなく、広い社会とつながりながら営まれる日常の一場面なのです。

画家・画商としてデルフトの美術市場で働く

フェルメールの生涯を、作品だけでたどると、大切な一面が見えにくくなります。彼は絵を描くだけではなく、絵を売り、価値を判断し、同業者の共同体を運営する職業人でもありました。

父の死後、フェルメールは美術商の仕事を引き継いだ可能性が高いと考えられています。自分の作品だけでなく、ほかの画家が描いた絵も扱ったのでしょう。1676年に作成された家財目録には、家の各部屋に置かれた多くの絵が記録されています。ただし、それらが家族の所有物だったのか、商売のための在庫だったのかを、すべて区別することはできません。

フェルメールが、絵画の価値や真贋を判断する場に参加した記録もあります。そこから、作品を見る目を買われる立場だったことは分かります。しかし、一度あるいは限られた機会の記録をもとに、恒常的な「鑑定人」という職業を営んでいたと断定することはできません。

デルフトの聖ルカ組合では、1662年から1663年、そして1670年から1671年に、理事・組合長格を務めました。組合の役職は、画家や職人、美術商の共同体を支える仕事です。複数回選ばれたことは、フェルメールが同業者から一定の信頼を得ていたことを示しています。

生前の評価を伝える記録として、工房を訪れた旅行者たちの存在もあります。1663年にはフランス人旅行者バルタザール・ド・モンコニが、1669年にはピーテル・テディング・ファン・ベルクハウトが、フェルメールの作品を見るために工房を訪れました。

こうした記録から、フェルメールが生前まったく知られていなかったとは言えません。作品を見ようと訪ねる人がいて、組合の運営を任される立場にもありました。一方で、その名声がアムステルダムや国外まで広く定着していたわけでもありません。評価は、主にデルフトと限られた顧客の範囲にとどまっていたと考えられます。

重要な顧客として挙げられるのが、ピーテル・ファン・ライフェンと妻マリア・デ・クナイトの家系です。のちの相続や競売の記録から、この家系が多数のフェルメール作品を所有していたことが分かります。

1657年11月30日、フェルメール夫妻がファン・ライフェンから200ギルダーを借りた記録も残されています。ただし、これは貸付の記録です。専属契約があった、定期的な援助を受けていた、作品を一定の条件で買い続けてもらっていたという直接の証拠にはなりません。

ファン・ライフェンを「パトロン」と呼ぶことはありますが、その関係の実態は十分に分かっていません。近年は、妻マリア・デ・クナイトの役割にも注目が集まっています。誰が購入を決め、どのような注文をしたのか。作品が完成するたびに買ったのか。記録の空白は、ここにも残されています。

フェルメールの現存作品が約35〜37点と少ない理由も、はっきりしていません。一点に時間をかけたためだと説明されることがあります。美術商との兼業、組合の仕事、限られた顧客、失われた作品の存在も考えられます。大家族であったことも生活時間に影響したかもしれません。

しかし、どれか一つを原因にすることはできません。作品数の少なさは、フェルメールが「遅筆だった」という一言だけでは説明できないのです。

カトリック信仰の寓意
ヨハネス・フェルメール《カトリック信仰の寓意》1670–1672年頃、油彩・カンヴァス、メトロポリタン美術館所蔵
画像出典:Wikimedia Commons(原画像:The Metropolitan Museum of Art)/Public Domain

1670〜72年頃には、『カトリック信仰の寓意』のような、カトリック的な題材を持つ晩期作品も制作しました。若い頃の宗教画とは異なり、成熟期の室内空間と寓意的な物が組み合わされています。フェルメールは、風俗画へ移った後も、宗教という題材を完全に手放したわけではありませんでした。

作品を見るために訪れた旅行者たち

フェルメールの名声がデルフトの外へどの程度広がっていたかについては、資料によって評価が分かれます。ただし、彼の作品を見ようとデルフトを訪れた人々の記録は残っています。

1663年、フランスの外交官で旅行家でもあったバルタザール・ド・モンコニが、デルフトを訪れました。モンコニはフェルメールの作品を見ることを望みましたが、本人のもとでは作品を見られず、別の場所で一枚の絵を目にしたと日記に記しています。その評価は必ずしも好意的なものではありませんでしたが、少なくとも町を訪れた旅行者が、フェルメールという画家の存在を知っていたことが分かります。

1669年には、オランダ人のピーテル・テディング・ファン・ベルクハウトもフェルメールを訪ねました。彼は日記の中で、フェルメールが描いた絵を見たことに触れ、その遠近感を思わせる表現に注目しています。

これらは短い記録であり、同時代の人々がフェルメールをどのように評価していたのかを十分に伝えるものではありません。それでも、彼が誰にも知られず、ひとりで絵を描いていた画家ではなかったことは確かです。デルフトを訪れた人が作品を見ようと足を運ぶ程度には、その名と仕事が知られていたのです。

コラム③

絵を描くだけではなかったフェルメール

フェルメールというと、窓から光の差し込む部屋で、一人静かに絵を描いていた画家を思い浮かべるかもしれません。しかし実際の彼は、作品を制作するだけでなく、絵画を取り巻くさまざまな仕事に携わっていました。

1653年、フェルメールはデルフトの聖ルカ組合へ加入し、親方画家として公的に認められました。自分の名で作品を制作し、販売できる立場を得たのです。一方で、父レイニエルから美術商の仕事を引き継いだと考えられています。自作だけではなく、ほかの画家が描いた絵も扱い、作品を売買する市場の中で暮らしていました。

またフェルメールは、絵画の価値や真贋について意見を求められる場にも参加しています。ただし、現代の専門鑑定士のような仕事を日常的に営んでいたと確認できるわけではありません。画家や美術商として持っていた知識を買われ、判断に加わったと見るのが自然でしょう。

さらに、1662年と1663年、1670年と1671年には、聖ルカ組合の理事を務めました。これは、同業者の共同体を支える側へ回ったことを意味します。フェルメールは、アトリエだけで完結する孤独な画家ではありませんでした。絵を描き、売買し、価値を見定め、地域の美術に関わる人々をまとめる。デルフトの美術市場の中で、いくつもの役割を担う職業人だったのです。

1672年、「災厄の年」が生活を変える

1672年、ネーデルラント連邦共和国は大きな危機を迎えました。フランスをはじめとする諸国の攻撃を受け、政治、軍事、経済が混乱します。この年は、オランダ史で「災厄の年」と呼ばれています。

戦争が始まると、人々の暮らしは不安定になります。生活に必要なものが優先され、美術品を買う余裕を持つ顧客は減っていきます。絵画市場が停滞すれば、画家だけでなく、美術商も大きな影響を受けます。

フェルメールの家計がどのように悪化したのかを伝える重要な記録は、彼の死後、妻カタリーナが債務整理を求めたときの申請です。カタリーナは、1672年以後、夫が自分の作品をほとんど売れなくなり、美術商として保有していたほかの画家の作品も、損失を出して手放さなければならなかったと説明しています。

これは、晩年の困窮を知るうえで欠かせない証言です。ただし、債務整理を求める当事者が、家庭の苦境を説明するために提出した文書でもあります。文章をそのまま客観的な収支報告や医学的な記録として読むことはできません。

フェルメール一家には、多くの子どもがいました。食費、衣服、住居、教育など、日々の生活費が必要です。収入が減る一方で支出は続き、借金は増えていきました。

1672年には、父レイニエルが購入し、母の死後にフェルメールの所有となった宿屋メーヘレンを賃貸した契約も残されています。家族の資産をどのように扱うかを変えなければならない時期だったことがうかがえます。

1670年代に制作されたと考えられる作品は、以前より少なくなります。しかし、経済的な苦境がそのまま制作数の減少を引き起こしたとは断定できません。健康状態、精神状態、制作意欲を詳しく伝える記録は残っていないからです。

戦争で絵が描けなくなった。借金のために病気になった。心労が直接の死因になった。そのような一本の物語にしてしまえば、人生は分かりやすく見えます。けれども、史料が伝えているのは、戦争と不況の中で商売が悪化し、大家族の家計が追い詰められていったというところまでです。

フェルメールの晩年は、光に満ちた室内画とは対照的に見えます。しかし、その対照を悲劇的な物語へ整えすぎないことも大切です。分からない部分を残したまま、確かな出来事を見つめる必要があります。

1675年、43歳で迎えた死

フェルメールの正確な死亡日は分かっていません。確認できるのは、1675年12月15日に、デルフトの旧教会へ埋葬されたことです。43歳でした。

妻カタリーナが後に提出した申請には、それまで健康だった夫が、一日半ほどの短い間に亡くなったと解される記述があります。急な死だったことはうかがえますが、病名は記されていません。

心臓発作だった、脳卒中だった、感染症だったといった推測はあります。しかし、現代の医学的な診断を下せる資料はありません。経済的な重圧が健康に影響した可能性を否定することはできませんが、「借金苦による心労死」と断定することもできません。

残されたのは、妻カタリーナと11人の子どもたちです。多くは未成年でした。そして家族には、多額の負債が残されました。

1676年2月29日、フェルメール家の財産目録が作成されます。家の中を部屋ごとに調べ、家具、衣服、地図、絵画、画材などを書き留めた文書です。これは、フェルメールの生活環境を知るうえで、もっとも重要な記録の一つとなっています。

目録には、イーゼルや画材、さまざまな絵画が記されています。私たちはそこから、家の中にどのような物があり、どの部屋が制作に使われた可能性があるのかを考えることができます。ただし、目録にある家具と作品に描かれた家具が似ていても、絵の部屋をそのまま実在の部屋とみなすことはできません。

同じ年の春頃、カタリーナは債務整理と財産の保護を求める申請を行いました。家に残された絵画は、鑑賞の対象であると同時に、借金の返済や家族の生活を支える財産でもありました。画家が心を込めた作品であっても、遺された家族にとっては、現実の生活と結びついた資産だったのです。

1676年9月30日には、同じデルフトに住んだアントニ・ファン・レーウェンフックが遺産管財人に任命されました。顕微鏡観察で知られる人物です。二人が親友だった、作品のモデルだったといった説もありますが、個人的な親交を示す直接資料はありません。記録から確かに言えるのは、レーウェンフックが遺産整理を担う立場になったということです。

フェルメールの死後、家族の生活は、作品の美しさとは別の厳しい現実に直面しました。絵画は壁から外され、所有者が変わり、借金や相続の流れの中へ入っていきます。けれども、その移動こそが、作品を後世へ運ぶことにもつながっていきました。

死後、フェルメールの評価はどう変わったのか

フェルメールは、亡くなったあとすぐに、作品まで忘れ去られたのでしょうか。答えは、いいえです。

作品は残り、所有され、売買されました。高い価値を認められたものもあります。しかし、作品と作者の経歴が一つのまとまりとして受け継がれたわけではありません。時間がたつにつれて、絵は知られていても、それを描いた「フェルメール」という人物の輪郭が薄れていきました。

作品は残ったが、作者の名は薄れていく

1676年の財産整理の後、作品は家族、債権者、収集家の間へ移りました。重要な顧客だったと考えられるファン・ライフェン家の作品群も、娘や娘婿ヤコブ・ディシウスへ相続されていきます。

フェルメールの活動範囲が主にデルフトに限られていたこと。作品数が少なかったこと。多数の作品が特定の家系に集中していたこと。署名が見つけにくい作品があったこと。こうした事情が重なり、画家の名前が広く知られる機会は少なかったと考えられます。

別の画家の作品として扱われた例もありました。とくに、室内風俗画を得意としたピーテル・デ・ホーホなどの名が付けられることがあります。作品そのものが評価されても、作者名が正しく伝わるとは限りません。

18世紀にも、フェルメールの絵は収集され、競売にかけられました。一部の愛好家は、その質を認めていました。つまり、約200年間、誰からも知られなかったわけではありません。ただ、フェルメールがどのような人生を送り、どの作品を描いたのかという全体像が、整理されていなかったのです。

作品は残りました。しかし、作品と「フェルメール」という作者の名は、少しずつ離れていきました。

1696年、ディシウス家の競売

1696年、アムステルダムで、ヤコブ・ディシウス家のコレクションが競売にかけられました。そこには、複数のフェルメール作品と考えられる絵が、まとまって出品されていました。

競売目録に記された説明から、《牛乳を注ぐ女》や《デルフトの眺望》と考えられる作品を見いだすことができます。これらは高く評価されました。フェルメールの死から約20年後にも、作品そのものの価値は認められていたのです。

この目録は、当時どのような作品が存在し、誰の手から市場へ出たのかを知る重要な資料です。ただし、短い作品説明と現在の作品を、すべて確実に一致させられるわけではありません。題名も現在とは異なり、似た画題の作品が複数あった可能性もあります。

それでも、1696年の競売は、フェルメールの作品が一つの家系にまとまって保有されていたことと、死後も市場で価値を持っていたことを具体的に伝えています。

19世紀の再評価から現在へ

19世紀になると、フランスの美術批評家テオフィル・トレが、フェルメールへ強い関心を寄せます。トレは、ウィリアム・ビュルガーという筆名でも活動しました。

各地の美術館や個人コレクションを訪ね、別の画家の名で扱われていた作品を調べ、フェルメールの作品群を組み立て直そうとしました。1866年には、フェルメールに関する論考を発表します。

トレは、当時まだほとんど分かっていなかった画家を「デルフトのスフィンクス」と呼びました。スフィンクスは、問いを投げかけ、簡単には答えを明かさない存在です。作品は目の前にあるのに、作者の人生は見えない。その距離を表す呼び名でした。

ただし、トレが完全に忘れられていた画家を一人で発見したわけではありません。フェルメールの作品は、それ以前にも所有され、評価されていました。トレの大きな役割は、散らばった作品と作者名を結び直し、画家の全体像をつくろうとしたことにあります。

トレがフェルメール作とした作品の中には、現在では別の画家の作品とされるものもあります。再評価は、一度で完成したわけではありません。その後の研究者たちが、公文書、署名、来歴、作風、材料などを調べ、作品の帰属を修正していきました。

20世紀には、フェルメールの名声と作品の希少性が急速に高まります。その高まりが、贋作事件も生みました。

オランダ人画家ハン・ファン・メーヘレンは、フェルメールの未発見作品に見せかけた絵を制作しました。中でも《エマオの食事》は、フェルメールの初期宗教画として専門家に受け入れられ、重要な美術館に購入されます。

なぜ、専門家たちは欺かれたのでしょうか。当時は、フェルメールの初期作品が十分に整理されていませんでした。新しい宗教画が発見されるかもしれないという期待があり、希少な画家への熱狂もありました。贋作事件は、優れた専門家であっても、時代の期待や既成の物語から完全に自由ではないことを示しました。

現在の研究では、作品の表面を見るだけではなく、内部を調べます。X線、赤外線、顕微鏡、顔料分析などを使い、絵具の下に隠れた線や、制作途中の変更を明らかにします。作品をできるだけ傷つけずに調べる方法は、フェルメール像を少しずつ更新してきました。

《真珠の耳飾りの少女》では、現在ほとんど黒く見える背景に、もともとは緑色のカーテンのような布が描かれていた可能性が高いことが示されました。時間の経過によって色が変化し、私たちが見ている画面も、完成当時とまったく同じではないのです。

《牛乳を注ぐ女》の調査では、壁に壺掛けが描かれ、床付近に火かごが置かれていた段階があったことが分かりました。フェルメールは、それらを完成前に消しています。物を加えるより、取り除くことで、女性の動作へ視線を集めたのでしょう。

《フルートを持つ少女》について、ナショナル・ギャラリー・オブ・アートは2022年の調査で、フェルメール本人による作品ではないと再評価しました。フェルメールの制作を近くで知る人物が描いた可能性も論じられていますが、現在のNGAオンラインカタログでは作者を「17世紀オランダ」としています。材料や制作手順には共通点がある一方、筆づかいや仕上げには違いが見られます。

ただし、正式な工房や弟子の存在が確定したわけではありません。フェルメールの制作方法を近くで知る人物がいた可能性が示されたという段階です。作品の帰属は、現在も研究機関によって判断が分かれることがあります。

《小路》についても、2025年の研究で、制作の初期段階では扉が閉じられていたことが示されました。完成した画面だけを見ていると、すべてが最初から決まっていたように感じます。しかし科学調査は、フェルメールが描きながら考え、消し、変え、画面を整えていったことを教えます。

2023年、アムステルダム国立美術館では、28点を集めた過去最大規模のフェルメール展が開かれ、約65万人が訪れました。作品数の少ない画家だからこそ、多くの作品が一つの場所に集まる機会は特別なものになります。

フェルメールの評価は、19世紀に完成したわけでも、20世紀に固定されたわけでもありません。保存、修復、技法調査、帰属研究が進むたび、私たちが知る画家の姿は少しずつ変わります。フェルメールは、過去の巨匠でありながら、今も研究の途中にいる画家なのです。

ヨハネス・フェルメールという画家が残したものとは

フェルメールは若い頃、宗教や神話を題材とする歴史画から画家としての歩みを始めました。しかし、その後は少しずつ人々が暮らす日常の世界へと目を向け、牛乳を注ぐ、手紙を読む、楽器に手を添えるといった、ごく身近な行為を絵画の中心に据えるようになります。

フェルメールが最後まで向き合い続けたもの

フェルメールは制作だけに専念していた画家ではありませんでした。美術商として絵画を扱い、デルフトの聖ルカ組合では役職を務め、同業者たちの共同体にも関わっています。妻と多くの子どもたちが暮らす家は、生活の場であると同時に、制作や商いの場でもありました。晩年には戦争による経済の混乱と美術市場の不振に直面し、家計も厳しい状況へ追い込まれていきます。

こうした人生をたどると、フェルメールを「静けさを描いた画家」という一言だけで捉えるのは難しいことが分かります。彼の作品に繰り返し現れるのは、人が暮らす室内、人物と家具の距離、窓から差し込む光、そして何気ない行為の途中に生まれる一瞬の表情です。

フェルメールがなぜそうした場面を選んだのか、本人の言葉から確かめることはできません。それでも作品を見渡していくと、日常の中にある人物、物、空間、光の関係を、長い年月にわたって描き続けた画家だったことが見えてきます。

未来に残した“形あるもの”

フェルメールが後世に残した、もっとも確かなものは作品です。現在フェルメール作と認められている絵は、美術館や研究機関による帰属判断の違いを含めても、およそ35〜37点しかありません。

その少ない作品の中には、若い時代に描いた宗教画や神話画があり、やがて彼を代表することになる室内風俗画があります。《デルフトの眺望》や《小路》には17世紀の町の姿が残され、《牛乳を注ぐ女》では、日々の仕事に向き合う人物の動作とともに、パンや陶器、壁などの質感まで丁寧に描かれています。《真珠の耳飾りの少女》では、振り返る人物の顔や視線、衣装、光の反射が画面の中心となり、《絵画芸術》では画家が制作する空間そのものが大きな主題となっています。

残されたのは、絵画だけではありません。1632年の洗礼記録をはじめ、1653年の婚約や結婚に関する記録、聖ルカ組合の記録、借金に関する文書、埋葬記録、死後に作成された家財目録なども、現在の私たちがフェルメールの人生を知るための重要な資料になっています。もちろん、これらは本人が未来の人々へ自分の人生を伝えるために残したものではありません。それでも、作品だけでは分からない一人の職業画家の暮らしを知る手がかりとして、現在まで伝えられてきました。

さらに、作品そのものの中にも、制作に費やされた時間が残っています。顔料や絵具の層、下層に隠れた描写、制作途中で位置や形を変えた跡などを調べることで、完成した画面だけを見ていては分からなかった制作工程が明らかになってきました。

《真珠の耳飾りの少女》もその一例です。現在はほとんど黒く見える背景には、もともと緑色をつくる絵具層があり、技術調査からはカーテン状の布が描かれていた可能性が示されています。また、肉眼ではほとんど分からなくなったまつ毛や、耳の位置、頭巾や首まわりの輪郭を制作途中で調整した痕跡も確認されました。完成した姿だけでなく、フェルメールが描きながら選択を重ねていった過程まで、後世の保存と科学調査によって少しずつ見えるようになっているのです。

未来に託した“考え方”

では、こうして残された作品から、現在を生きる私たちは何を受け取ることができるのでしょうか。

まず気づかされるのは、日常の何気ない行為も、絵画の重要な主題になり得るということです。英雄の戦いや歴史上の大事件を描かなくても、人間の暮らしは十分に豊かな表現の対象になります。牛乳を器へ注ぐわずかな時間、手紙へ視線を落とすひととき、楽器に触れようとする人物の姿。フェルメールは、普段であれば通り過ぎてしまいそうな瞬間を、画面の中心に置きました。

光もまた、単に物を明るく見せるためだけに使われているわけではありません。窓から入る光によって人物と壁との距離が伝わり、布や陶器の質感が変わり、室内の空気や時間の流れまで感じられるようになります。人物だけを見るのではなく、その人が立つ場所まで含めて見ることで、フェルメールの絵はさらに多くの情報を伝えてきます。

同じことは、室内に置かれた物にもいえるでしょう。椅子、地図、手紙、パン、陶器、楽器など、日常では見過ごしてしまいそうな物にも、画面の中では人物と同じように意味のある場所が与えられています。特別なものだけを探すのではなく、普段目にしているものへ丁寧に視線を向けることで、それまで気づかなかった形や色、光の変化が見えてきます。

そして、フェルメールの作品は多くの場合、そこで起きている出来事のすべてを説明してくれません。手紙に何が書かれているのか分からず、人物が何を考えているのかも語られません。《真珠の耳飾りの少女》も、モデルとなった人物が誰なのかを示す同時代の記録は確認されておらず、特定人物の肖像ではなく「トローニー」と考えられています。見る人に明確な答えを示すのではなく、画面に描かれているものから考える余地が残されているのです。

静かな室内も、17世紀の社会から切り離されていたわけではありません。壁に掛けられた地図の向こうには航海や交易があり、衣服や顔料、さまざまな道具の背景には商品の流通があります。フェルメール自身もまた、家族を養い、美術商として絵を扱い、同業者の組合に加わり、顧客と関わりながら生活していました。晩年には戦争による経済の混乱にも巻き込まれています。

つまり、作品に見られる静かな場面は、社会から離れた場所で自然に生まれたものではありません。さまざまな現実の中で暮らし、働いていた一人の職業画家が、人物や物、光、空間を選びながら画面の中に組み立てた表現なのです。

残された作品の数と、後世に与える影響の大きさも、必ずしも一致しません。フェルメールの現存作品は決して多くなく、生前の評価も、現在のような世界的な名声とは異なるものでした。それでも350年以上が過ぎた現在、《牛乳を注ぐ女》や《デルフトの眺望》《真珠の耳飾りの少女》などを前に、多くの人が足を止めています。

同時に、フェルメールに対する評価や作品の見方も固定されているわけではありません。かつてフェルメール作と考えられていた作品の帰属が見直されることもあれば、科学調査によって完成画の下に隠れていた構図変更や、経年変化によって見えにくくなった色や描写が明らかになることもあります。新しい資料や技術が加わるたびに、私たちが知るフェルメール像も少しずつ更新されています。

350年を経ても、まだ問いは残されている

そして、まだ分かっていないことも数多く残っています。誰から絵を学んだのか、作品をどのように販売していたのか、制作の近くに技法を学んだ人物がいたのか。そうした問いに、現在のところ確かな答えがない場合もあります。

しかし、分からないことが残っているからこそ、作品をもう一度見直し、資料を読み返し、新しい調査へつなげることができます。すべてが分かっていないこともまた、フェルメール研究が現在まで続いている理由の一つです。

フェルメール本人の手紙や日記、芸術についてまとまった言葉は、ほとんど残されていません。そのため、彼が未来の人々へ何を伝えようとしていたのかを、本人の思想として語ることはできません。それでも、窓から差し込む光、手紙に目を落とす女性、器へ注がれる牛乳、こちらへ顔を向ける少女を見ていると、普段なら見過ごしてしまう一瞬へ自然と目が向きます。

次々と情報を受け取り、そのまま先へ進んでしまいがちな現在だからこそ、目の前にあるものを少し時間をかけて見る。見慣れた日常の中にある光や色、人の動作をもう一度確かめてみる。そうした見方も、フェルメールの作品から現在の私たちが受け取れるものの一つなのかもしれません。

フェルメールの絵は、一つの答えを示してくれる作品ではありません。何気ない日常の中で、私たちは何を見ることができるのか。その問いを考えるきっかけが、350年以上を経た今も、彼の作品の中に残されています。

フェルメールについて、分かっていること・まだ分からないこと

フェルメールの生涯には、公的な記録から確認できることと、現在もはっきり分かっていないことがあります。

分かっていることまだ分かっていないこと
1632年10月31日にデルフトの新教会で洗礼を受けた正確な生年月日
父レイニエルが宿屋経営や美術商をしていた少年時代にどのような教育を受けたのか
1653年にカタリーナ・ボルネスと結婚した誰のもとで、どこで絵を学んだのか
1653年12月に聖ルカ組合へ親方画家として登録されたカトリックへ正式に改宗した時期や経緯
画家だけでなく、美術商としても活動していた夫妻の子どもの正確な総数
聖ルカ組合の役職を複数回務めた一部の作品に描かれた人物が誰なのか
1675年12月15日にデルフトの旧教会へ埋葬された正確な死亡日と死因
死後、家財目録や負債整理に関する記録が残された現存作品を正確に何点と数えるべきか

この記事では、記録から確認できる事実を土台にしながら、
研究者の間でも結論が出ていないことは断定せずに紹介しています。

引用・参考元はこちら
主な参考資料
Erfgoed Delft「Johannes Vermeer en Delft」
National Gallery of Art「Johannes Vermeer」「Vermeer’s Secrets」
Rijksmuseum「Vermeer exhibition texts」および各作品・研究ページ
Mauritshuis「Johannes Vermeer」「Girl with a Pearl Earring」「View of Delft」
The Leiden Collection「Johannes Vermeer」
The Metropolitan Museum of Art 各作品ページ
National Galleries of Scotland《マルタとマリアの家のキリスト》作品ページ
国立西洋美術館《聖プラクセディス》作品ページ
Kunsthistorisches Museum《絵画芸術》作品ページ
Staatliche Kunstsammlungen Dresden フェルメール展研究ページ
注:作品数、子どもの総数、改宗、作品の帰属など、研究機関によって見解が分かれる事項は、本文中で幅を持たせて記載しています。